東浩紀×萱野稔人―暴力のエコノミーと環境管理

カネと暴力の系譜学 (シリーズ・道徳の系譜)今さらなのか分からないが萱野稔人にハマっている。
彼のブログ(萱野稔人「交差する領域」)などを読んでてなんとなく最近の東浩紀と近いものを感じていた。それは、いつかの東氏のトークイベントで福嶋亮大指摘された「身も蓋もない話」から始めるという点においてだ。
例えば東浩紀なら「動物」「認知限界」「生殖」、萱野なら「暴力」「カネ」から考えるように。それら二人の出発点は萱野氏がまとめるように「生存」というキーワードで結び付けることもできるだろう。萱野の本を読むことで東浩紀が最近問題にしている話がまた見えやすくなった。
東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)立ち位置や見た目では対照的にも見えるかもしれない二人だが、互いに1970年、1971年生まれと世代においてもかなり近い。萱野氏は『東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)』で東が言及したような愛知県の「荒々しい郊外」で生まれ育ったという。それらのことが二人の感性や思想の近さにも現れているのだろう。
実際、先日の対談において二人はかなり意気投合したように見えた。萱野氏は度々、東浩紀の言葉への共感と近い問題意識を共有してることの驚きと喜びを表明していたように思う。
『国家とはなにか』頭の悪い僕ががんばって考えてみるに、二人の問題意識を簡単に言えば「人間の集団(家族、共同体、中間集団、国家と国民、国家間)の秩序と自由をいかに保つか」なんていう言ってみれば古代、昔からある話なんじゃないかと思う。萱野氏の『国家とはなにか』は「暴力」を中心に、まさにその理論と系譜について話している。
しかし現在それが先進国における成熟社会化、グローバル経済とインターネットに代表される情報技術の飛躍的進歩によってまた考え直さなきゃならん時期になっている。まさにポストモダンじゃね?みたいな感じが現実化してるわけだ。
それに対して二人はどのように回答するか?以下は僕の視点から見た二人の考えを僕がまた考えた物なので多分にノイズが入ってることに注意されたし。

二人とも共有しているのはありがちな規範的リベラリズムの逆説、「リベラルな人はリベラルじゃない人に優しくない」という問題である。真のリベラリストは大量の多元的な価値を認めない人たちの存在を認めなければならない。単純なリベラリズム、規範論はこの問いに答えるのにはあまり役に立たない。
萱野はそれらの問題点を明確に理解しつつも、容易に答えを出すことには慎重だ。最近の若手論者に共通の弱点とも言える「価値を提示できない」問題(「land and ground」でまとめられている)だが、それは彼自身がよく理解してるだろう。彼の思想に対する倫理と誠実さの現れだと思う。
彼が一つの回答として提示するのは「ナショナリズム」と「宗教」だ。この2つは人間の生、そして死に意味を与えてくれる歴史上最強のシステムとしてある。あらゆる価値観が横並びになっていたとしても、これらが支配的な価値、ヘゲモニックな価値観になることがあるのではないかと萱野は言う。
対して、東はリバタリアンの立場から「国家は暴力のことだけを考えていればいいと思う」と言う。それ以外の政治と呼ばれるもの、とりわけ富の再配分についてはもっと効率のよい方法があると東は考えているようだ。東は市場を情報技術によって上手いこと管理することによってそれが可能になると信じているように見える。それがどのように可能になるのか僕はまだ想像できないが。さらに教育でさえも市場化した方がいいと言う。東は市場に強い信頼があるようだ。以前には民主主義を市場化するようなアイデアも話していた(ガブル・ガビッシュ - 東浩紀が久しぶりに興味深かった。)。
他にも対談では<帝国>、世界国家、連邦国家などポスト国家の暴力のエコノミーの管理を巡る話、想像的な類似性が共同体を成しうるということなどの指摘があった。前者については以前に雑誌『談』でも萱野稔人仲正昌樹との対談において話している(「談 no.75 WEB版」)。


上で挙げた問題に答えは出すのはまだ難しいにせよ、今、この時期に二人の新鋭「哲学者」の邂逅が実現したことは幸運のように思った。
対談の活字化希望

(追記)
雑誌『SIGHT』2007summerの東浩紀の連載で簡潔に詳しくまとめてあります。興味持たれた方はぜひこちらもご覧ください。

SIGHT (サイト) 2007年 08月号 [雑誌]

SIGHT (サイト) 2007年 08月号 [雑誌]