繰り返しの中の一回性、アウラと批評の現在

massunnk2007-07-09

先日の日記で紹介した新宿ゴールデン街劇場のお芝居の模様が紹介されてた。

楽しい芝居だったようで見にいけなかったのが悔やまれる。芝居はホントにその時その場の一回限りだからなぁ。5回公演があったとしてもその5回の繰り返しそれぞれで違う味わいや感触を得ることができると思う。まぁ5回全部見る観客はなかなかいないだろうがw
今後の活躍を遠くから期待しております。

■「アウラ」を巡って

複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)芝居は完璧にコピーしてくり返すことはできない。その時その場の空気、役者のリズム、聴衆の反応…色んな要因が重なり、その「一回性」のようなものが生まれる。いわゆるベンヤミンさんが『複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)』で考えた「アウラ」ってやつがまだ生きてるように感じるわけだ。
アウラ」はオーラとも言い換えられるかもしれないけど、なんだかスピリチュアルな江原啓之の某TV番組を思い出すからやめとくよ!


ところでベンヤミンさんは複製技術時代の到来によって「アウラは消滅した」みたいに考えたようだけど、以前、mu君(id:emptiness)たちと話していて
「そんなことは無いよなw」
って結論になったことがあった。僕もだいぶうろ覚えだが、たしかid:kingworldの音楽著作権とかについての話の中だった。お、その時のレジュメを発見。

音楽で言えばライブの「一回性」の中にはもちろん残っているだろうし、大量生産大量消費されるCDを繰り返して一回一回聴く中にだってそれは残っている。映画だってそうだ。前に斎藤環が誰かとの対談で「夜中にたまたまテレビで見た忘れられない映画がある」とか何とか言ってたが、そういう体験は誰にでもあると思う。
ちなみに僕は中学の時に夜中に見た岩井俊二の「スワロウテイル」を覚えている。途中からだったのだが、「何だこれは!」とすごく惹きこまれてしまった。その時はまだ岩井俊二の「い」の字も知らなかった。
こういう体験はベンヤミンさんの考えた「アウラ」とは何が違うのだろう。
そうだ、たぶんベンヤミンってやつは「作り手」の存在をあまりに特権化してるんだよな。「聴衆」「オーディエンス」「観客」や「消費者」という「受け手」に発生しているはずの「アウラ」を作品の「作り手」による「一回性」や「固有性」に見出してしまっている。哲学的な用語で言えば「転倒」ここに極まれりっ!なわけだ。*1

■中にありつつ外にある

とは言え「作り手」の特権性も完全に無くなったわけではない、はずだ。僕たちは音楽を聴くなり小説を読むなりするとき、その音楽や小説がすごく気に入ったとき、その作者が誰かを知りたくなるだろう。そしてその作者の別の作品を読んでみたくなるはずだ。
映画やアニメ、ゲームなどあるいはファッションなどの集団制作の作品、というか商品の場合は「作り手」の存在が曖昧になって特権性が消えかかったようにも感じるかもしれない。しかし、例えば年季の入ったアニメオタクなんかは監督、演出、脚本から作画、声優、そして最近は萌え要素素直クールなど)に至るまであらゆる文脈を読み取ってそのアニメの価値を計ることができる。
アニオタは極北としても、こういうのは多かれ少なかれ映画でもファッションでもどんな業界でも、その道に通じている人はある程度は把握しているものだ。
大雑把に言えば映画で言えば監督、ゲームで言えば制作会社のブランド、ファッションで言えばブランドとかデザイナー、そして最近ではモデルが重宝される(エビちゃん現象)。集団制作の場合はそれら監督やブランド、デザイナー、モデルの「固有名」の記号的価値が重視される。
もちろんその「固有名」の価値は個々の「受け手」たちが判断していくわけだから、ここではいわば「アウラ」が、作品と「受け手」のコミュニケーション、そして「受け手」たちのコミュニケーション、更に言えばそのコミュニケーションが生成する「環境」*2から生まれてくる様を見ることができるだろう。ここでも「作り手」の「固有名」の価値=「アウラ」はいわば「受け手」があってこそ見出される。東浩紀の言う「環境分析」とはこの事を言ってるのだとも考えられる。


しかしそもそも作品が作られなければ「作り手」も「受け手」も無いし、「作り手」と「受け手」の境界が曖昧だったりする。まぁこれはぶっちゃけどういう視座から見てどこに視点を置くかって問題でもある。ベンヤミンさんは「作り手」に着目してたからああいうことを言ったんだろう。
ラカンの精神分析 (講談社現代新書)すると「アウラ」は「受け手」の中にありつつ、外にもある、ということになる。
ラカンはこういうのをたしか「外密」とか表現してた。新宮一成はこれを黄金数に見出し、それを対象aの例え話とかに使ってたけど、この辺の説明はめんどいのでググるgoogle:外密 ラカン]」か、彼の本『[asin:4061492780:title』に当たってくれ。黄金数の美しさとラカンの「外密」ってやつの関係がピンと分かるはずさ。

■「批評」について

で、「批評」なんだが、どんなにすごい作品があったとしても、そのすごさは作品が「受け手」に届かなければ分からない。さらに、届いたとしても「受け手」がその作品の文脈を読み取れなければそのすごさは分からない。簡単に言えばその作品が読めない言葉、知らない国の言葉で書かれていればそもそも読めないし、それを解読するコードが分からなければすごさは伝わらない。
あるいは「スワロウテイル」に僕が感じたように「何だこれは!」と「すごさ」を覚えても、それを言葉にできなかったりする。こういう「すごさ」=「アウラ」を示したり、言葉にして伝えていくという役割も批評とか評論の仕事なんだろうなぁと思う。
そういう意味で批評とは伝染する「すごさ」を解読(解毒)し翻訳するコード、パスワードのような鍵となる概念=キーワード、言葉というワクチンを作り、伝えることでもある。
例えば、アニメに詳しくとも詳しくなくとも一般人を含め、哲学、精神分析社会学建築学、アート、音楽、ジェンダー、SF、特撮など他ジャンルに精通する人、あるいはAC(アダルトチルドレン)みたいなメンヘラーの人から見て、そのアニメ作品のすごさが発見され、生み出されたりすることがある。これが劇的に起こったのが「エヴァ現象」だった。
いわばあれは人類総批評家計画だったとも言える。あれがきっかけで良くも悪くも人生の方向がよく分かんなくなった人は中高生含め多いはず、僕はたぶんその一人だ。


けどあの「幸福な時代」は終わった。今や「すごさ」は万人に分かりやすい「感動!」「純愛!」とか「全米が泣いた!」といった言葉に置き換えられ、人間の情動的な部分に単純に刺激を与える作品がもてはやされ、消費される。けどこれは人間なんてのはマクロで見れば動物的にしか動いてないっていう単純な統計学的事実を示しているだけのことで、そんなことを嘆くのは無意味だ。

ポストモダンの批評家たち

そんな動物化したポストモダンの中でも、(だからこそ)批評は必要とされる。
最近だと

「同期/非同期」「インストゥルメンタル/コンサマトリー」などのコードによってニコニコ動画Twitterといった最近のネット文化や「水曜どうでしょう」を鮮やかに分析するアーキテクチャ研究の濱野智史

screenshot


「新しい才能の発掘、出会いの誘発」を目指すmu君たち80年代世代によるメルマガとはてなの連携による創作と批評の試み「CRISS-CROSS Project」。


あとなんだかよく分からないがすごそうな惑星開発委員会の面々。


あとまぁこの人たちは言及するまでも無いんだけど、最近の私的な趣味で順に言えば


…とかはそれぞれジャンルは違えど、何だかんだ言って優れた批評家だよなぁと思う、僕が褒めたところでなんてこと無いかもしれないが、彼らは自分が得意とする言葉によってその「すごさ」を何とか伝えるという困難な役割を引き受けている。彼らは「アウラ」問題を引き継ぎつつ、それぞれが問題とする文化の領域から、その文化の「すごさ」を解読し、言葉で外に発信しようとしている。
どっかでは「批評はキャラ立ちツールでしかない」みたいなことを言われてるらしいが、左のエントリでも言ってるように

批評とは、誰かが発見しなければその良さが埋もれてしまったかもしれない想像力を見落とすことなく評価すること

…批評とは作家の想像力と読み手の間に通常の読みとは異なる回路を設けて接続すること、それ自体だ…

批評とは… - デイジーチェイン・アラウンド・ザ・ワールド

と僕も思う。
棲み分けるサブカルチャーたちを再び接続し、外山恒一よろしくスクラップ&スクラップ!するためにも批評の役割ってのはまだ残っているはずだ。
はてな」という環境にはまだその可能性があると僕は信じている。
とりあえず「これはすごい」タグなどを付けるブックマーカーたちもある意味でポストモダン的な批評の一形態と言える。そこから何が「すごい」のかを見つけるのは、批評系ブロガーたちの仕事なのだろう。


最後に駄文だが筒井康隆先生は東の「ゲーム的リアリズム」を誤解していらっしゃると僕も思います。けどあの人は誤解してても、あの人なりに「分かってる」から「すごい」のだけれど。

*1:おそらくこのベンヤミンの「転倒」は哲学の根源にある「イデア」論に由来している。

*2:≒データベース

*3:文芸誌『新潮』の連載参照