文化庁より娘のレベルが高かった件について

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 YAMADASさんにララバイを歌われてしまった東浩紀氏のことである。といいつつ、内容はどちらかというと苦情とか危険性の指摘とかいう内容であり、ララバイとは縁が遠いものではあるが、東氏自身はそれが読み手に与える脱力について一度考察を加えるべきである。というか、年賀状に子供の写真がプリントされていて感じる類の呆然とは趣が違い、誘拐されたらどうするのだとか、将来大人になったとき魚拓で自分の画像が父親サイトでおおいに晒されていた件について悩んで校内暴力に走るといった危険性について読み手が心配してしまうことへの配慮はあって然るべきかと思うのはyomoyomo氏だけではあるまいに。

東浩紀氏が何か言っています: やまもといちろうBLOG(ブログ)

ララバイでも何でもいいが東浩紀が娘の写真をトップに上げることのリスクなんか周知の事であることは、こんな片隅の大学生ニートブロガーが指摘するまでもないことであるのだが一応言ってみる。『情報自由論』を復習しよう。

…ドイツの社会学者、ウルリヒ・ベックは、ポストモダンを、富の再分配ではなく「リスクの再分配」が問われる時代だと特徴づけている。動物の合理性とはリスク回避の合理性である。私たちは、同性愛者を差別するわけではないが、生まれてくる子どもの人生のリスクをより低くするためにピルの服用を選ぶ。同じように、決して韓国人や中国人を差別するわけではないが、メディアで喧伝される「外国人窃盗団」に出会うリスクを低くするために、日本人ばかりが住む地域を選んで住む。あるいは、決して児童や生徒の非行を疑うわけではないが、彼ら自身が犯罪に巻き込まれるリスクを低くするために、通学路に監視カメラを設置し、子どもたちにはIDカードとPHSの携帯を義務づける。フクヤマに倣って言えば、ここには「私的な排外主義」「私的な管理社会」が生まれる可能性がある。セキュリティの強化を願うときには、つねにその危険を自覚しておかねばなるまい。(赤字は筆者)

波状言論>情報自由論>第14回

では、なぜそのリスクを理解しながら東は娘の写真をトップに上げているのか。
あなたがそれを分かりたいのならば東浩紀×北田暁大の『東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)』を読まれるか、もうそんなの読んだよというならば、もう一度、特に最後の終章「東京からネーションを考える」を読まれることをおすすめする。
それでも分からなければ、ただひたすら東氏のブログあるいはHPのトップ画像、あるいは件の文化庁のページの左下にあるプロフ写真を眺めてみることだ、いつか悟りが開けるだろう。



……「娘かわいい!!」と。



僕は何を書いてるのだろうか。


いずれにせよ東浩紀の「思想」は上に引用した『情報自由論』の時からかなり変容しているようにある一面では見える。最近の東氏の仕事を読まれてない方には理解しがたい点もあるだろう。あのトップ画像はその東氏の「思想」の変容を示している。
僕はそれをわざわざ、ここで語るようなことをするつもりはない(もうすでに十分語ってるじゃないかと言われるかもしれないが…)。あとは読者諸賢がそれぞれ考えるなり、感じてもらうのが一番だと思う。


もうひとつ、ヒントとして仲俣暁生さんの最新の日記からいい言葉を見つけたので引用させていただきます

音楽にかんして一つだけ言えるとしたら、それはNo Audience,No Musicということだ。言い換えればそれは、大手洋楽レコードショップの宣伝文句とは逆に、生活と音楽の関係は「No Life,No music」だ、ということだ。

http://d.hatena.ne.jp/solar/20070704#p1

これはさらに、「No Life,No culture」と言い換えることもできるでしょう。
文化庁、及び国にはその意味をよく考えてもらいたいものだ。分からないだろうが。


今、この時にも着々と僕らの「文化」は生まれつつある。そして、それは僕たちの「生活」と深く結びついている。
さて、戯言はこれくらいにしてニコ動でも見るとしよう。

  • 参考

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)