『ほしのこえ』と認知限界

マンガ『ほしのこえ』では最後、ノボルがミカコに会いに行くという目的が明確に示されていた。アニメではそこらへんがちょっと曖昧にされていたために、下手するとミカコを取り戻すために敵であるタルシアンを倒しにいく、みたいに取られかねない面もあったように思う。

例えば大塚英志氏は、彼はこの『ほしのこえ』という作品に「主題」を見てとるのだが、ノボルが軍人になることを「大人になること」と見てしまう*1
しかし、そこは違う見方もできてしまう。
ノボルは単純に「ミカコに会いに行く」という自らの「私的」な動機のために「軍人」になってしまっている訳でつまりそこにはちょっとした「小さな成熟」はあったとしても、いかなる「大きな物語」も存在していないに等しい。ただノボルはどこにでもありふれてるような「小さな恋の物語」を成就させるために(それが成就されたかどうかはアニメでもマンガでも示されない)、ただそのために「軍人」になってしまうのだ。ノボルにとって「軍人」になって戦うことはそれに付随する副次的なものに過ぎない。

そのように考えると、この作品には大変な問題も含んでいることにも気づく。

「ミカコに会いに行く」という『小さな恋の物語』の成就のために「戦争」という『大きな物語』にコミットしてしまうこと…。この解離をどう見るか*2
この図式は『雲のむこう〜』でも同じように反復されている*3

もちろんそんな深いところまで考える必要なんか無いのかもしれない。新海誠は単に「物語」を進行させるためのガジェットとして「戦争」を使用しているに過ぎないとも見れる*4

「世界のどこかでは日々、戦争が行われているようだ。けど私たちとは関係のないことみたいだ…。」

このような感覚は広く私たちが共有してしまっているものでもある。
冒頭の有名なミカコのモノローグ、

セカイっていうコトバがある
ほんの少し前まで 私は
セカイっていうのはケータイの
電波が届く場所なんだって
漠然と思っていた*5

にはその感覚が素朴に表現されている。
マンガ版だと次のようなモノローグもある。

普段 生活していた セカイでさえ
とても 大きいと 思っていた

タルシアンの存在が 人類にとって 良いか悪いかなんて
私には 上手く考える事 すら出来ない…

「上手く考える事」すら出来ない。つまり私たちがどこかで起きている『戦争』(ここでの『戦争』の意味は実際の「戦争」と、それに伴う「死」だとか「飢え」、「格差の拡大」なども含む)のようなセカイで起きているものごとに対して『認知限界』をきたしてしまっているわけだ。
しかし確実に『戦争』はあるわけで、そのことと私はどこかで繋がっている可能性はある。

もし何かあって…

私の世界が壊れてしまうのは嫌だ…

別の場所で 大変な事が起こっていても
いつも テレビの中の出来事で 終わらせていた…

直接自分に接点がなければ 何も考えられないなんて

都合がいいかも しれない…

ちなみに唐突だが、鈴木健氏によるPICSYはこの「私とセカイの繋がり」を実感できるようにする貨幣メディアである。鈴木健はどこかで、「PICSYが国際通貨になればいい」と言っていたが、それはこの「私」と「セカイ」の短絡を「なめらか」に繋ぐメディアとしてPICSYが非常に有効だからだ。

私たちは知り合いを6人ほどたどれば、世界中の人間を網羅できる、という「Six Degrees of Separation(6次の隔たり)」*6という理論が社会学にあるが*7、それは経済においても、私たちは経済活動のネットワークの網の目に否応なしにいるわけだから、その理論を当てはめられると考えれば、やはり私たちはセカイとどこかで(間接的にしろ)繋がっているのである。それらの経済活動の流れをPICSYによってなめらかに繋ぐことで、私たちのセカイへの『認知限界』を小さくすることができるだろう(エンパワーメント)…。*8

私たちみなが参照しうる「大きな物語」としての「世界」が無き今、「世界」というものは、おそらくそういう「人々の繋がりの総体」としてしか想像しえないものなのだ。
こうした「私」と「世界」の短絡の問題についてかねてから言及している東浩紀は98年の講演において次のように語っていた。

九〇年代の人々は、ごく身近な日常的な出来事(想像界化した倫理)か、「世界の終わり」についての思弁(現実界化した存在論)にしか興味がなくなってしまった。ならばこれに対して、僕たちはどうするべきでしょうか。さきほども述べたように僕は、結局、失われた象徴界の力、つまり言葉や知識の力を何とか復活させるほかないと思います。
しかし他方で、ひとたび社会がこれだけ断片化されてしまった以上、そうおいそれと社会の全体性が回復しないことも事実でしょう。…
…となると僕たちが目指すべきは、ちょっと矛盾して抽象的な言い方ですが、象徴界という後ろ盾がない新しい言葉の力しかないのだと思うんですね。…
…それこそが、象徴界によってタテ方向に保証されたものではなく、単独に、ヨコに突き抜けるような言葉の可能性ということです*9
。…
「郵便的不安たち―『存在論的、郵便的』からより遠くへ」『郵便的不安たち♯』p84

だいぶ脱線、迂回した気がするが、それではその上で新海誠の紡ぐ物語が抱えてしまっている問題はどう解決されうるか。物語の中で「主人公」と「世界」をいかに「なめらか」に繋ぎうるのか。
おそらく本当はそんなことを考える必要は無いのかもしれない。
実際、新海誠は『ほしのこえ』という作品レベルで多様な視聴者を獲得することに成功している。DVDはインディーズとしては異例の6万枚超を売り上げ、世界16か国で海外版もリリースされ、国内外を合わせてその売り上げは10万枚に達するという(http://event.yahoo.co.jp/kumonomukou/hoshinokoe/とInvitation10月号2004)。テレビでも放映されたし、マンガ、CDドラマなどでメディアミックス展開もあった。
おそらく『雲のむこう〜』も同様に多様な視聴者を獲得することだろう。

しかしだからこそ、多くの人の目に触れうる作品だからこそ、いつまでも人々の動物的な快楽に媚びた「麻薬」のような作品を作るのではなく、例えば宮崎駿で言えば『ラピュタ』とか『千と千尋〜』のような作品でなく、『ナウシカ』だとか『もののけ姫』のように「毒薬」が仕込まれた作品を作ることが必要なのではないか。ただ、今の時代では単純にそのような作品を作ること(それらの宮崎駿のような)では、視聴者が限られてしまうのだろうが。

けどそれは新海誠に期待してはいけない類のものなのかもしれない。『雲の〜』を見ても明らかなように、やはり彼はエンジニアなのだ。プログラマーとも言っていいかもしれない。人々の「感動」だとか「泣き」を効率的に誘発するように作品を周到に編集することに非常に自覚的だし、ましてそのことをインタビューで明言してしまう。
このような「新しい」作家がわずかでもノイズを獲得するとしたら、それは何か原作のある作品のアニメ化をしたときにもしかしたらどこか彼の作品にノイズが含まれることになるかもしれないような気もするが、おそらく彼はそうしないだろう。

予想になってしまうが、彼は岩井俊二がPVやCMを作りそれらを元手に映画をとったりしてきたように、同じ感じにPVやゲームのOPを作りつつ、それらを元手にまた新たに映画を作るのだろうと思う。それが彼の才能にとって幸福なことなのかもしれない。

PS.「ほしのこえ」「雲のむこう」を批判するような文章になってしまったが、誤解されないように言っておくと僕はこの2作品がかなり好きだ。どれくらい好きかというと、例えば僕は今この文章を書きながらアマゾンでコレを買ってしまった。やっぱ買うしかないってばコレは
「雲のむこう、約束の場所」complete bookほしのこえ (KCデラックス)「ほしのこえ」を聴け (アニメ―ジュ叢書第2弾)郵便的不安たち# (朝日文庫)アニメージュ魂 (2002Spring) (ロマンアルバム)
戦闘美少女の精神分析
雲のむこう、約束の場所 メモリアル特典BOX [DVD]

*1:via.『アニメージュ魂 (2002Spring) (ロマンアルバム)』後ろの方か、『「ほしのこえ」を聴け (アニメ―ジュ叢書第2弾)』冒頭。

*2:ミカコはもっと問題だ。彼女は他人に定められた運命を、強い抵抗もなしに受け入れてしまっているように見える。しかし彼女の場合は『戦闘美少女@斎藤環』なので半分しょうがないね!

*3:「雲のむこう〜」は「ほしのこえ」の「物語」を発展させた形のものとして作られたものである。発展というかそれは「ノイズ」を物語に取り入れた、ということだが、それは二者の恋愛関係(鏡像関係)から三者の三角関係へ移行させたところにその意識が表れている。しかしその「ノイズの取り入れ」は僕の目からは失敗しているようにしか見えない。映画を見た人なら分かると思うが、その三角関係が実にあっさりと二つの二者関係へと分裂し(三角関係において必須な衝突や葛藤はあまり重要に描かれていない印象を受けた)結局ほとんど「ほしのこえ」と同様、というよりむしろますます技術的には洗練された『「よくできた」「ウェルメイド」な泣ける作品』(『「ほしのこえ」を聴け (アニメ―ジュ叢書第2弾)東浩紀のインタビューより)になってしまっていた。それは新海がこの作品で「エンターテインメント性」を追求したためでもあるけど…

*4:新海は、一人でもこれだけのアニメ作品が作れることを示すためにこの作品を作った、というようなことを色んなところで言っていた。この発言からも分かるが、彼は作家、というよりもエンジニアに近い。ただ、それでも新海の作品には「主題」があり、しかも彼がそれを重視して作品を作っているように見える。ここからは想像になってしまうが、それは彼が大学で「国文学」を専攻していて、そこで学んだ文学的な「主題」の作り方みたいなことでさえも、作品を作る上での技術として、つまり、かなり逆説的に聞こえるが「主題」でさえも一つのガジェットとして扱ってしまっているからではないか。ごめん今なんかすげーテキトーなこと言った気がする。。。冗談半分で…。

*5:マンガでは「世界」と表記されているが個人的な感覚としてここは単に音としての「セカイ」の方が近い。

*6:参考:http://www2.nsknet.or.jp/~azuma/nu/nu0024.htm

*7:ちなみにgreeの名前の由来はコレ。参考:http://www.gree.jp/?mode=doc&act=about

*8:ここで気づいたが、mixiなどのSNSも同様のことをやってるとも言える。私たちは多層化した人間関係の様々なコンテクストと、多重化する「私」の人格に『認知限界』をきたしており、それを解決する一つの方法としてSNSが現れたのではないか。つまり単純に言えば、かつてであれば容易に見渡せた人々の人間関係が、このポストモダンな社会においては見えにくくなってしまったために、それを再び可視化する(これも一つのエンパワーメントだ)ツールとしてSNSは現れたとも言えるかもしれない。

*9:例えば「はてな」はそうした「ヨコに突き抜ける」言葉を作り出すことに一部成功していると言っても過言ではないと思う。以前もid:massunnk:20051109で書いたが、はてなキーワードによって言葉レベルでの繋がりを作り、グループ、リングではコミュニティレベルでの繋がりを作ろうとしているコミュニティレベルの繋がりを作ることに関しては以前isedで東氏が近藤社長に提案していた→http://ised.glocom.jp/ised/02061212