「やりこみ」のゲーム史――「Rule-Breaking」から動物化へ

徹夜明けのトランス状態で無理やりまとめたつっこみどころ満載な稚拙レポ。Web2.0の時代は未完成でもベータ版でもアップしつづけることが大事なんだそうなんだと信じてアップ、と毎度ながら先に言い訳をして逃げる自分に自己嫌悪。本当は何で今任天堂Wiiが売れているのかについて現代思想の用語を3つ以上用いて書こうかと思ったけど4000字以内にまとめる能力など僕にあるはずも無く頓挫(身体性だとかアフォーダンスだとか適当に言っとこうと思ってた)。
実を言うと僕自身は中二ぐらいからなぜかゲームからは離れてしまっている。けど周りの友人にはゲーム好きの友人が多くいたので友人の家に行くと必ずゲームをやっていた。その頃の僕の記憶だと2000年前後を境に友人らと楽しんでいたゲームが、挌ゲーから音ゲーへと移行していった印象がある。音ゲーについてはジャンルの特性もあってかあまり語られていない印象があったのでいつか言葉にしてみたいとはどこかで思ってた。今回少しでも言葉にすることができただけでもよかったわ。自己満。*1
あと書いてる途中で内容変わったりして元のはタイトルと内容が若干解離してたのでタイトル変えた。誤字脱字も気づいた分は修正、しかしあんなミスをしたまま提出していたとは。
以下本文。

コンピュータゲームにポストモダン化を見る

70年代を中心に始まった「ゲーム」の歴史には日本、ひいては世界のポストモダン化の徴候とその全面化が如実に現れている(はずだ)。今回は主に日本で流行したゲームソフトの変遷を、主にゲームのジャンルに注目しながら、90年代以降は個人的なゲーム体験も踏まえて、ユーザーの欲望の変容の推移を見ていきたいと思う。

「Rule-Breaking」という脱構築手法

78年、日本でタイトーの『スペースインベーダー』が大流行し、「ゲーム」が大きく認知されるきっかけとなった*2。この流行により日本全国にゲームセンターが乱立することになる。このゲームは「敵キャラクターが攻撃を仕掛けてくるゲーム」で初めて大ヒットしたゲームだった。また、「ゲーム」特有のバグを利用した裏ワザなどをゲームをやりこんだユーザーたちが発見し、「ゲーム」の「攻略本」が初めて出版されたりした。
こうした「やりこみ」と「バグの発見」→「裏ワザ」などのゲームプレイのスタイルは現在のゲーマーたちにも受け継がれている。では、なぜこうしたゲームプレイが行われたのであろうか?

「Rule-Breaking」というキーワードがこの問題に答える鍵となる。
昨年の夏に行われたRGN第3回「コンピュータゲームにおけるプレイヤーという存在」で増田泰子(ゲーム評論サイト管理人)はプレイヤーとゲームのルールの関係を巡る考察からプレイヤーが「よりそのゲーム」を遊ぶために、プレイヤーがルールを破る(あるいは改変する)行為=「Rule-Breaking」を行うことがあるとしている。(http://www.4gamer.net/news.php?url=/news/history/2006.08/20060803142459detail.html
増田氏は始めに「ゲームプレイとは,原則としてルールに従うことによって進行していくもの」と定義付けたうえで,「しかし皆さんもご存じのように,プレイヤーは必ずしもルール通りの行動をするわけではない」と解説する。例えばあるゲームをやりこみ過ぎて飽きたり、単に難しいといった「軋轢」(不快)が生じたとき、プレイヤーがそれでもゲームを続ける場合には、プレイヤーはその不快な要素である「軋轢」を埋めようとする。その埋める方法が「Rule-Breaking」であるというのだ。裏ワザを使ったり、さらには攻略本を読んだりして攻略を容易にしたり、またはゲームの面白みをバグや裏ワザの発見に見出したりルールを改変/追加することも「既存のルールを否定である」という観点からこれに当てはまる。この見方は『スペースインベーダー』で起こったことにきれいに当てはまっている。

このようなゲーム理解は後期ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の議論が思い出させる。後期のウィトゲンシュタインは「規則(ルール)が存在して、人間はそれに従う」という規則(ルール)に対する典型的な考えを批判し、「人はゲームをやりながら、規則(ルール)をでっち上げる」と脱構築した。

われわれは、ひとびとが野原でボール遊びに打ち興じ、現存するさまざまなゲームを始めるが、その多くを終わりまで行わず、その間にボールをあてもなく空へ投げ上げたり、たわむれにボールをもって追いかけっこをしたり、ボールを投げつけ合ったりしているのを、きわめて容易に想像することができる。そして、このとき誰かが言う。この全時間を通じて、ひとびとはボールゲームを行っているのであり、それゆえボールを投げるたびに一定の規則に準拠していることになるのだ、と。
でも、われわれがゲームをするとき――<やりながら規則をでっち上げる>ような場合もあるのではないか。また、やりながら――規則を変えてしまう場合もあるのではないか。
ウィトゲンシュタイン、藤本隆志訳『哲学探究』大修館書店、1976年、83-84頁

そのような思想的な文脈から<「Rule-Breaking」は「ゲーム」の脱構築である>と言うこともできる。

80年代から90年代における「やりこみ」の席巻

こうした「やりこみ」のような「Rule-Breaking」的ゲームプレイの存在はゲーム制作者に意識されることにより、故意にバグが仕込まれたり「隠しアイテム」や「隠しキャラ」のようなやりこみ要素を増やして制作されたゲームが80年代から90年代にかけてゲーム市場を席巻した。稲葉振一郎明治学院大学社会学部教授)はそれが一般に有名になったのは『ゼビウス』あたりからだとする。(http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060629/p3
稲葉氏はこうした「やりこみ」がRPGのような急速にゲームシステムを複雑化させることで自由度を飛躍的に上昇させたソフトにおいて様々な「Rule-Breaking」的ゲームプレイのバリエーションを生んだという。これは私自身の実感とも合っている。
補足して言うならば、私の実感ではこうした「やりこみ」は90年代において対戦型格闘ゲーム(以下、挌ゲー)の領域でも起こっている。
91年にカプコンストリートファイター2(以下、スト2)』が登場することにより挌ゲーがゲームのジャンルの一つとして定着する。挌ゲーはボタン入力とスティック入力(十字キー)を決められたコマンド入力に従って短時間で入力することにより飛び道具や通常より威力の強い技(必殺技)で相手をいかに攻撃するかが勝敗を分ける重要な要素であった。『スト2』においてはまだ単純なコマンド入力であったがジャンルが成熟するにつれて、連続で攻撃できる合わせ技(コンボ)を決めるために複雑なコマンド入力をほとんど反射レベルで入力することを強いられ、格闘ゲーマーは日々その鍛錬を強いられることとなった。
さらに言えばゼビウスなどのゲームにおける「予期せぬバグ」は次のコマンド入力が読めない人間の対戦相手である「予期せぬ他者」によって代替されることにより、挌ゲーにおいてはほとんど無限の「やりこみ」をすることが可能となっている。

しかし、稲葉氏はこうした「やりこみ」が2000年頃から陳腐化していったという。*3
「やりこみ」の陳腐化については同意だが、それが起こり始めたのがPS2以降というのは私のイメージよりも遅い。さらに稲葉氏はその理由が「やりこみ要素」の詰め込み過剰によるものとする。それも一因かもしれないが私はそこには社会全体の変化が反映しているように思う。その変化は徐々に起こっており、正確に「ここ」と定められるようなものではない。まずはその「やりこみ」の陳腐化の始まりを象徴している90年代後半から台頭し始めたゲームジャンルを上げておく。音楽ゲームいわゆる音ゲーだ。

音ゲーにおける「プレイヤーとゲームの関係性の逆転」

96年にSCEから『パラッパラッパー』が発売され音楽ゲーム(以下、音ゲー)というジャンルを初めて確立する。97年には『beatmania』などの
音ゲーにおいて特徴的なのは一言で言えば「プレイヤーとゲームの関係性が逆転している」ことだ。RPGにおいてレアアイテムを見つけるためにゲームの世界を右往左往したり、挌ゲーで攻略本に書いてある複雑なコマンド入力によるコンボを会得するために鍛錬をして、ゲームをプレイするというかゲームにプレイされてきたような熱心なプレイヤーは、音ゲーに至って、目の前のゲーム画面に支持されたボタンをリズムに合わせてせわしなく押していくようなゲームに対して完全に受動的なユーザーを生み出した。
これは『動物化するポストモダン』(東浩紀)で示されたエヴァ以降のアニメや美少女ゲームの消費における「萌え要素」にただ記号的に反応して欲求を満たす「動物化」したオタクたちの姿と重なるものがある。実際、私の周りでは音ゲー美少女ゲームの消費者はかなり重なる部分があり、この現象が互いに無関係では無いことを示している。美少女ゲームと言うジャンル自体、『Air』に象徴的なように音楽に対して強いこだわりを持つジャンルであるし、『THE IDOLM@STER』通称『アイマス』などの作品にもその親和性は見て取れる。
この音楽へのこだわりはポストモダン化の中で動物化した身体とも深い関係がある。音楽は意識変容(トランス)を引き起こす道具として容易に使える。<高度に発達した電波ソングは麻薬と見分けがつかない>と言ったブロガーがいたが(http://d.hatena.ne.jp/acqua_alta/20070213/denpa)まさに動物化したオタクやゲーマーたちはそうした麻薬に浸ることでますます動物化していくことになる。

まとめ

スペースインベーダー」から始まった「やりこみ」という「Rule-Breaking」的なゲームプレイは80年代から90年代にかけてそのバリエーションを拡大させるが、1995年を境に起こり始める日本社会のポストモダン化の影響もあり、2000年代には陳腐化してしまう。それに代わって現れたのは、音楽とゲームのプログラムの指示するコマンドへの反応を競い身体的な快楽を追求する動物的なゲーム消費だった。

*1:けどこういうことはもうすでに誰かがどこかで語ってるんだろうなー。ちなみにゲーム批評」とかいう雑誌がありますが僕は読んだことありません。そんな人が書いています。なんかあの雑誌とかで語られてる気もする。

*2:「ゲーム」の歴史については販売されたハードやソフト、販売された年号はほぼ全てWikipediaの記述に従った。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

*3:<<PS2以降のRPGにおいては、この「やりこみ」の退化――というより陳腐化とでもいうべき現象が起きているように見られる>>(ゲームと公共性 - インタラクティヴ読書ノート別館の別館