「いただきます」への自由、「掃除」からの自由

考:「いただきます」って言ってますか?「給食や外食では不要」ラジオで大論争−家庭:MSN毎日インタラクティブ(id:kingworld:20060124より)

TBSラジオ「永六輔その新世界」(土曜朝8時半〜、放送エリア・関東1都6県)で昨秋、「いただきます」を巡る話題が沸騰した。きっかけは「給食費を払っているから、子どもにいただきますと言わせないで、と学校に申し入れた母親がいた」という手紙だ。番組でのやり取りを参考に、改めて「いただきます」を考える。

なんか人気URL1位らしいからおれも。もうブームは過ぎたかな?


これは東浩紀-情報自由論ised的な用語を使うと自由至上主義(リバタリアニズム)(あるいはそれに加えて自由主義リベラリズム)と共同体主義(コミュニタリアニズム)、の間で起こっている論争ですな。*1


リバタリアン*2の立場からすりゃ「いただきます」なんて言っても言わなくてもいい、一人一人が勝手にやってても秩序は生まれるって言ってる考え方だからね。ルール無用の異種格闘技戦

コミュニタリアンの立場だと「いただきます」は言わなければならない。なぜならそれがその共同体(コミュニティ)のルールだから。ルールを守らなければその共同体の一員ではない。


で、おまえはどっちなんだよとか言われそうだけど、まぁ論理的にはリバタリアンだよね。
「いただきます」を言わなければいけないことを論理的に正当化することはできません。

そういえば前にも書いたけど僕は小学校、中学校通して「給食の時間」がすごく嫌だった。
くじ引きで決められた班でさ、机を寄せて向かい合って給食を食べるんだよね、クラスみんなそろって「いただきます」とか言って。
班の人なんてみんな大して仲良かったりするわけじゃないからさ、給食中話す話題なんか当然無いわけで、結局みんな無言で食事してて…。僕はその空気が耐え難いものに感じられた。給食の時間が短かったのが救いだったかな、けどあれ人によっては短すぎるよなぁ、食べる時間が20分とか場合によっては15分、10分だったような…(前の時間が体育とかで。そういうときは例外的に「いただきます」言わなかったりした気がするかも)。
まぁ学校てのは世の中のそういう非合理的なものの体験に耐えることを学ぶ場でもあるだろうから、それはもうすごく勉強になったんだけど。


けど、もし家族でいっしょに食べるとき「いただきます」とか「ごちそうさま」とか言わなかったらちょっとなんか寂しいよなぁとかも思ってしまう。
つまり感情的にはコミュニタリアンなのか。

人んちとかで他の家族とメシ食うときもさすがに言うよね。
友達とかが自分の家で家族といっしょにメシ食うときに「いただきます」も言わずに食べ始めて「ごちそうさま」も言わずに食べ終えて「おじゃましました」も言わずに帰ってったら「僕は果たしてこいつと友達でいるべきなのだろうか」…とか考えるかもなぁ。


この手紙の母親はお金を対価に「『いただきます』を言わない」ことを許可してほしい、と言ってるらしい。リベラリストの立場から言えば、この母親の意見は考慮されるべきであろう。「いただきます」を言いたくない人に無理やり言わせるようなことは、あらゆる立場、主義、信条の人間が共存できる社会を作る必要に迫られている多文化主義多元主義の現在において許されることではない。リベラリズムってのはいわば「好き勝手やっていいけど共同体間の相互の自由は認めようね」ってことだから、その「『いただきます』を言わない」自由は保障するべきなんだよな。
つーかそもそもこの母親の言ってる「給食費を払ってるから」とか言うのはあんまし関係ないのかも。
小学校という多種多様な国民全体の税金で成り立ってるメタ「公共」の場で、「いただきます」の言う言わないなんてのは金払ってるとか関係なく基本的に自由なんじゃないかな?


けど、僕が通ってたような小学校とかでそれを実行するのはなかなか難しいだろうね。
なんたって給食の時間ってのが決まってて、クラスの教室の自分の机でみんな揃っていっせいに食べるっていう状況じゃやっぱみんなで「いただきます」って言っちゃうよな。
あ、けど別に言わなくてもわかんないじゃん。口パクじゃダメカナ?


結局、「いただきます」を言わない自由を獲得するには、現行の給食制度、というか学校のシステム、つまり学校の環境管理を見直す必要があると思う。公共性ってものの中身が、かつての共同体主義的なもの(規律訓練)から多文化主義的なもの(環境管理)、に変わってきているわけだから*3、それに合わせて学校も変わるべきといういつもの話。*4

しかし私立の学校とかであれば、「『いただきます』を絶対言わなければならない学校」とかがあっても全然かまわないと思う。逆に「『いただきます』を言ってはならない学校」とかも。そこは多文化主義だからね(公立の学校はそういうことはできなくなっていくんだろうな)。
そのかわり、自由にその学校を辞められるようにはすべきだろう、つまり「降りる自由」は認められるべきだろうと。

小中学生は学校の掃除をする必要があるのか?

なんかひさびさに必要以上に長くなったけど、最後にもう一つ。

前も話題に出た例のベルギー人の友人が面白いことを聞いてきたんですよ。


「なんで日本の小中学生は学校の教室とかを掃除するのか?」


この問いには僕も最初驚いた。ベルギーでは学校の掃除を学生がすることは無いらしい。
確かによく考えてみたらこの制度に疑問点が無いわけでもない。

小中学生には義務教育を受ける義務はあっても学校の掃除をする義務は無いだろうと。
むしろ学校(公共財)の掃除とかは国の税金―公費から賄って行うべきなのではないかと。


結局その問いには上手く答えられなくて、今もまだ考え中といったところ。
おそらく学校というものの「公共性」と「共同性」が問題になっているのだろうけど、あまり納得いく答えが出せません。答えなんて無いのかもな。どっちでもいいじゃんという趣味の問題かなぁ。

自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

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学校が自由になる日

学校が自由になる日

*1:ここらへんの区別は「ised倫理研第3回:北田暁大 講演(3)」を読めばおk。

*2:どうでもいいけどリバタリアンオバタリアンて似てるね。

*3:ここらへんの詳しい話は情報自由論(東浩紀)の第3回「規律訓練から環境管理へ」を。

*4:こういう将来のメタユートピア的な学校の姿は宮台真司, 内藤朝雄, 藤井誠二の共著による「学校が自由になる日」においてなかば過剰な期待と夢をもって具体的構想が記されている。