エクリチュールと鏡1―記憶を映し出す

先日のWorlds.でのmu(id:emptiness)とのギロン(id:massunnk:20051130)で捻出された「エクリチュールは鏡だ」という一つの気づき(または仮説)によって自分自身の視点の明確化、あるいは視野が拡大したように感じる。もちろんそれに伴う盲点の不鮮明化には注意しなければならないが、今回はそれを恐れずに、その視点から得られるものを記述してみようと思う。


もう一度、図を引用しておこう↓

私たちはここで、簡単に言えば、メッセージの送受信、または一方向のコミュニケーションについて考えている。Aは送り手、Bは受け手だ。そしてAによって送られたメッセージがエクリチュールecritureあるいはメディアに託され、Bに受信される*1
ここでmuが問題化したのはメッセージの送り手Aの存在、ひいてはAのメッセージの意図、がBによって確認できない状態だ。つまりまさに死者の言葉としてのecritureの問題だ。
そのAとBの隔絶した状態がecritureとBを囲んだ枠線で表されている。
その問題とはつまりこのとき「Bはいかにしてメッセージを受け取る、あるいは受け取っているのか?」ということだ。


この話は現代の私たちにとっても切実な問題になりえるものだ*2
メールを送信すること、掲示板に書き込むこと、見方によっては、または人によっては、それらは一つの冒険的な行為であるといえる。それらのメールや書き込みがメッセージの送り手の意図通りに受け取られる保証はほとんどないし、それらの一部は誤解、誤読と共に読み、読まれるだろうからだ*3
私たちはecritureを通じて自らの「記憶」から意味を引き出す。ここでecritureはまさに私たちの「記憶」を映し出す「鏡」の機能を果たしていると言える。ここではその鏡の歪みの可能性にも注意しなければならない。鏡がきれいな平面であるとは限らない。つまり私たちがecritureを通して「記憶」に存在する「意味」を適切に歪みなく映し出せるとは限らない。
ここからは2つの誤読があることが分かる。一つは「読み」のレベルでの誤読。もう一つは「記憶」の像の歪みのレベルでの誤読だ。図のαは前者の誤読。βは後者の誤読を表している。


ここで新たに2つ問題となることがある。一つは「あるecriture―鏡がどの記憶を映し出すかはどのようにして決まったのか、あるいは決まるのか」ということ。もう一つは「そこで他者性はいかにして現れるのか」ということだ。この問題に関してはまだ詳細な検討が必要なので日を改めて論じてみたいと思う。
おそらくその検討の際にウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」に関する議論が参考になるだろう。

追記

実際のところmuと僕の思考も、エクリチュールという文字ecritureの記憶に導かれていると考えられる。そこでお互い共通に読んでいると思われ、かつ先日の議論でも参照された東浩紀氏の『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』からエクリチュールに関するところを引用しておこう。

まず彼[デリダ]は68年の論文「プラトンパルマケイアー」において、『パイドロス』のある一節、ソクラテスが書くことの危険性(書くことは記憶を脅かす)について述べている箇所を参照し、まさにその場所をプラトン書いているという逆説に注意を促していた。…

ここで私たちが注意すべきは、問題とされた逆接の場所である。キルケゴールは…ソクラテスの逆説について考察した。
しかしデリダはそうではない。彼はソクラテスプラトン関係に逆説を見だす。そしてこの移動はデリダの関心が、「書かないひと」の単独性ではなく、むしろそれが書かれてしまうこと、固有名が反復可能なもの(エクリチュール)にされる過程にこそ向けられていることを示している…。
ソクラテスの単独性は、彼の声が死に、エクリチュールとして(プラトン主義として)登録されてはじめて遡行的に現れるのである。…

東浩紀存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』p63

郵便的隠喩に引きつけ整理すれば、「エクリチュール」とは結局、情報の不可避的かつ不完全な媒体のことだと考えられるだろう。情報の伝達が必ず何らかの媒介(メディア)を必要とする以上、すべてのコミュニケーションはつねに、自分が発信した情報が誤ったところに伝えられたり、その一部あるいは全体が届かなかったり、逆に自分が受け取っている情報が実は記された差出人とは別の人から発せられたものだったり、そのような事故の可能性に曝されている。デリダが強く批判する「現前の思考」とは、その種の事故を最終的に制御可能だと見る思考法を意味している。
逆に、コミュニケーションについてのデリダの基本的なイメージは、その種の事故の可能性から決して自由になれない「あてにならない郵便制度」だと言ってもよい。

東浩紀存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』p84

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

*1:ここで使っているエクリチュールという言葉はかなり抽象的な―文字、図像に限らない―意味で用いている。メディア一般と読み替えても支障はない。

*2:ここで「なりえる」といささか消極的に書いたのは一方で、この「繋がりの社会性(@北田暁大)」優位の現代の社会においてメッセージ内容の伝達が全く問題視されない状況がありえるからだ。例えば色んな人のmixiの日記のコメント欄を観察していると、その日記の内容には言及せず、ほとんど関係の無い話題を書き込んでいる場合がある。それらは一見理解しがたいが「繋がり〜」の観点から考えると容易に理解可能な事態だ。そこではつまり「その日記の書き手との繋がり」についての言及がなされているのである。それらは決して単純に否定できるものではない。「繋がり」はコミュニケーションの一つの側面なのだ。InterCommunication No.55に掲載されている辻大介「繋がりのリスク不安」p54に記されていたが、「近年の比較霊長類学の研究によると、現生人類(ホモ・サピエンス)のコミュニケーションは、情報伝達よりむしろ、そういう交話性(注:繋がりと言い換えていいだろう)への欲求に駆られて進化してきた可能性がある」らしい…。

*3:))。そこでは「読む」という行為自体も冒険と言えるだろう。私たちがメッセージを正しく読み、理解できる可能性は100%ではない。しかし同時に0%でないことも経験的に理解している。私たちはその冒険に賭けるしかない。 ではいったい受け手Bはどのような冒険に出ているのか? Bはecrutureを「読む」。これは所与のものとしよう。しかし、それだけでは私たちは何も受け取ることができない。ecritureはまさにそれだけでは「文字」「図像」、説明的に言えば、不自然なカタチに見える何か意味がありそうな私たちに何か意味をアフォードする表象、でしかない。 しかし私たちはそこから何か「意味」を得ることができる。どうしてか? そこに「記憶」が介在するからだ。「無意識」と言ってもいい((無意識とエクリチュール―文字の関係については東浩紀存在論的、郵便的―ジャックデリダについて』p318の記述、と斎藤環『文脈病―ラカンベイトソンマトゥラーナ』p368の図などが参考になる。