「ポストモダンと情報社会」第3回・東浩紀

  • ノート

ソーカル事件の話があった。よく聞く事件の割にはあまり詳しい経緯を聞いたことがなかったのでよい機会。
人文系の人たちは科学的なものに対する何かコンプレックスでもあったのでしょうか。科学の側から「てめーら適当なこと言ってんじゃねーよ」みたいなこと言われたぐらいで萎縮してそれまでに培った思想とか思考とかを無かったことにするなんてちょっと情けない話ですな。講義の話を聞く限りではそういう感じに聞こえた。
科学の側だって今はけっこう適当なこと言ってると思うんだけどねー。超ひも理論なんて現在の観測技術ではもはやほとんど確かめることできないわけだし。物理の講義でそこらへんの話聞くけど、あそこらへんはSFの話みたいにしか聞こえません。
科学も「観測限界」で行き詰ってるという点では人文科学とそんな大差無くなってしまったように思うけどなー。理系の学生があんま適当なこと言えませんが…。
そんなことを思った。おわり。

つーかはてなユーザー率高すぎw

「追うものと追われるものの関係」と「近代の知」―「映像文化論」高橋世織

昨日の高橋世織の講義から。
毎回、映像をテーマにあらゆる話題を縦横無尽に話されるのだが今回も面白い話がいくつも聞けた。
一番興味深かったのは、科学技術とかの発展とそれが可能にする人間の想像力の変容・拡張、そしてその想像力によって生み出された近代の思想とか科学とかの関係の話。
フロイトソシュールコナン・ドイルアインシュタインが並列に語られてかなり熱い。
例えば「映画」とフロイト精神分析の関係なんてのはよく言われるわけだけど、フロイトに限らずそういう思想とか科学の変容は1900年前後にはいろんな場所で起こっていたんだよね。

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脱ケータイ人間を目指して

最近メールの返信が遅かったりすると不安になったり、頻繁にケータイを見る癖がついてしまっている程にケータイ人間化してしまっているyuです、ちょっと末期です。
先日久々に会った友人を見ててケータイに縛られない自由さにうらやましくなりました。
ケータイは一日に2回チェックするかしないかでずっとカバンの中に入れっぱなし、返信は必要最低限しかしない。うちの姉貴もそんな感じだからそういう人間がいるのは知っていたけど自分より年下の人間で、しかも女の子でそういう人を見るのは初めてだったからちょっとした驚きだった。
趣味に没頭するタイプのようで休日は家で一日中ビデオを見て過ごすのが好き。いわゆる典型的な「ひきこもり系」。自分も昔はそんなタイプだったはずなのだが、大学に入ってからというものケータイ無しでは生きられないような身体になってしまっていることに気づいた。


そういえば先日のICCのシンポでも「存在論的メディア論―ハイデガーとヴィリリオ」の和田伸一郎がケータイについて話してたっけ。彼はケータイがかなり嫌いみたいでしたね。ケータイの電波が届かない場をあえて作ろうとかなんとか言って他のパネラーや観客の失笑を買ってました(笑)
けど和田氏の言ってることにも僕はなんとなく共感できて、つまり現代の私たちはあらゆる人間関係から「引っ張り」を常時受け続けている状態にいて*1、そういう「引っ張り」の中で私たちはそれぞれ個々のアイデンティティを確認しているとも言えるんだけど、「それって実は不自由なんじゃないか?」ていう疑問を和田氏は持っているようだった。「交通」とか「結集」とかのキーワードを使ってそこらへんを話してた。


閑話休題、脱ケータイの方法を色々考えてみた。今日からでも少しづつ実践してみようかと思う。

  • ケータイを全く鳴らないようにする。振動すらしないようにする。
    • そういや浪人時代もそういう設定にしてた。光ったりはする。
  • ケータイのお気に入りに入ってた某SNSを消した。
    • 毎回ケータイを見てた原因の一つ。
  • 時計を腕につけるようにする。
    • ケータイが時計代わりだったために毎回時刻を確かめるたびに見る羽目になっていた。
  • なるだけカバンの中に入れとくようにする。
    • ポケットの中だとすぐ取り出せてしまう。
      • ポケットには代わりに文庫本でも入れておこう、ちょっと賢くなった気分になれるはずだ。

またなんか思いついたら実践していこうと思う。僕もまたコミュニケーションに毒された人間になっていた気がする。今日からちょっと引きこもっちゃうぞ。連絡つかなかったりして色々迷惑かけたりするかもしれませんがご了承ください。

*1:この「引っ張り」てのはどっかの哲学者の用語だったと思う