「科学はprove[証明]せず。probe[探索]するのみ。」―『精神と自然』メモ
先日ベイトソンの『精神と自然』を再読してたのですが、また色々と気づかされることがたくさんあって驚きました。これからも幾度となく立ち返る本になりそうです。
- 作者: グレゴリーベイトソン,Gregory Bateson,佐藤良明
- 出版社/メーカー: 新思索社
- 発売日: 2006/11/01
- メディア: 単行本
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メモとして前半の2章「誰もが学校で習うこと」からいくつか引用しときます。
前提
芸術も、宗教も、商業も、戦争も、そして睡眠までもがそうなのだが、科学もまた前提presuppositions[思考以前の思い込み]の上に成立している。ただ、科学の場合は、単に思考の道筋が前提によって決まるというわけではない。現在の前提の是非を問い、非ならば破棄して新しい前提を造るところに科学的思考の目標があるのである。この点において科学の営みはそれ以上の人間活動と大いに異なる。
前提の組み替えにあたっては、自分たちがいかなる前提を基盤としているかということを意識すること、そしてそれを言葉で把握できることが、不可欠とはいわぬまでも、望ましいことは明らかである。また、科学的理論を立てる場合に、同じ分野を研究している学者たちがいかなる基盤の上に立っているか知っていることも、便利でかつ必要なことである。とりわけ、科学書に接するときは、書き手の前提としているところに意識が及んでいることが肝心である。
―ベイトソン『精神と自然―生きた世界の認識論』p33―誰もが学校で習うこと
前提の是非が問われなくなった科学のことを疑似科学と呼べるかもね。
科学はprove[証明]せず。probe[探索]するのみ。
一瞬先のことが予測できないのと同様、知覚の届く一歩先にある極微の世界も、宇宙の彼方の出来事も、地質学的に遠すぎる時代のことも、要するに観察できないものについて前もって知ることはできない。知覚による方法にほかならぬ科学には、真実かもしれないことの外在的で可視的なしるしを集め回る以上のことはできないのだ。
科学はprove[証明]せず。probe[探索]するのみ。
―ベイトソン『精神と自然―生きた世界の認識論』p39~40「その1、科学は何も証明しない」
今回読んでて面白かった部分のひとつ。G・チャイティンが数学ですらも「擬似経験的」なものであると語っていたことにも通じる気がした。
- 作者: グレゴリーチャイティン,Gregory Chaitin,黒川利明
- 出版社/メーカー: 白揚社
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客観的経験は存在しない
痛みや、外界の視覚イメージなどの感覚データの客観性を疑う人間が、少なくとも西洋文化の中に、ほとんどいないということは、やはり塾考に値する問題である。われわれの文明は、こうした客観性の幻想の上に深く根ざしているのだ。
―ベイトソン『精神と自然―生きた世界の認識論』p42
他にも色々あるけど今日は以上で。
- 関連:前読んだときの記事