リアリティをめぐるメモ - アニメや視覚メディアを題材に

リアルは形容詞で、リアリティはそれが名詞化したものであって、別に意味に違いはない。

しかし、フィクション作品を評価する文脈で、この2つを使い分けていることがあるような気がするのだけれど、どうだろうか。

ただ、実際のところ、いつ、どこで、どのようにして使い分けられているのか、という実例は出てこない(誰か知りませんか)。

リアリティという語について - logical cypher scape2


「リアリティ」については自分もけっこう前に色々考えていたことを思い出した。つれづれなるままに書き下してみる。

id:sakstyle指摘しているように、よく使われる割にはその意味について考えると「はて?」と立ち止まってしまう。

コメントにも書いたが、マンガ評論家の伊藤剛は『テヅカ・イズ・デッド』でマンガのリアリティを分析する上で、その意味を「もっともらしさ」と「現前性」の2つに分けている。
しかしsakstyleも言うようにこの2つの言葉も非常にあいまいだし、使いようによっては2つが重なる領域もあったりして使いにくい。


アニメを題材に考えてみよう。
伊藤の漫画論からは離れるが、この問題を考える上で参考になるエントリーがこの前あったので紹介する。

乱暴にまとめれば「道理を壊して無茶を通す宮崎駿」と「無茶をするため道理を通す押井守」といったところでしょうか。

飛び降りる宮崎駿vs飛び降りない押井守 <リアリティコントロールの話> - HIGHLAND VIEW


伊藤の言葉を使うと、こう言い換えられる。

  • 「もっともらしさ」を壊してでも「現前性」を通す宮崎駿
  • 「現前性」を保つために「もっともらしさ」を通す押井守


面倒なので解説は省くが、これは彼らのアニメを思い浮かべてもらえばガッテンがいくはず。「崖の上のポニョ」と「パトレイバー2」とか。


そもそもアニメのリアリティとは何か?という問題がある。
斎藤環は、宮崎駿指摘を引用しながらアニメ表現の「異様さ」についてこう語っている。

…なぜ誰も指摘しないのだろう、アニメは虚構の形態としてはきわめて異様なものであり続けていることを。どういうことだろうか。
宮崎異駿がしばしば指摘するように、虚構においては「嘘のレヴェルが一定である」必要がある。ところがアニメは、このを侵犯することで成立する表現なのだ。

―『フレーム憑き―視ることと症候』p218「アニメシーン、エヴァ以降」


sakstyleは「描写が写実的であること」によって生まれるリアリティを指摘していたが、それはアニメなどについて言えば当てはまるとは言いづらい。特にアニメの人物、キャラクター表現においてそれが顕著に現れる。同じところで斎藤が具体例を上げているのでそれをまとめてみよう。

  • 「主語の器官」人物の主体ないし表情を伝える部分である「眼」と「手」は過剰に描き込まれる
  • それに対する「述語の器官」、「耳」「鼻」「口」などは、漫画的な抽象化を被りやすい

さらに斎藤はアニメの「影」についても指摘している。

 しかし、もっとも奇妙なのは、なんといってもアニメの「影」だ。この影には理由がない。デフォルメされた顔に描き込まれた影は、それがデフォルメなのか実写的表現なのかを、常に撹乱せずにはおかないだろう。
私の考えによれば、以上のような一枚の画像にも反映されたリアリティ・レヴェルの混乱こそが、逆説的な形でアニメに自立したリアリティを供給しているのである。

―同上 p219

ここでも「リアリティ」という言葉の意味が混乱している。最初の「リアリティ」は「もっともらしさ」、後の「リアリティ」は「現前性」という意味と捉えられる。

この現前性っていうのは「臨場感」ってやつに似ているかもしれない。


斎藤環は「リアリティ」については初期の著作『文脈病』の時から考えていて、オンラインで読めるものだと次の宮崎駿について書かれた次の論文が参考になる。

 「アニメ」や「映画」など複数のメディアの存在意義は、もちろん「現実世界の忠実な再現」にはない。複数のメディアは、複数の虚構性を確保する機能を担わされる。ここでメディアに固有の文脈が問題となる。われわれはTVドラマのヒロインを演ずる同じ女優が、次の画面ではCMに出ていたとしても、さして混乱することはない。ドラマとCMの「文脈」を容易に切り替えることができるためだ。

 この「文脈」こそが問題なのである。しかしここでは、この語をより限定的に用いるため「表象コンテクスト」と言い換えてみよう。われわれはさまざまなメディアに接しながら、その表象コンテクストをも同時に受けとっている。私の用法による「コンテクスト」は、主にG.ベイトソンとE.T.ホールの用法から折衷的に鋳造した概念だ。しかし、ここでは単純に「ある刺激の意味を決定するような文脈」全般を指すことにする。具体的用法として1938年のラジオドラマ「宇宙戦争」でオーソン・ウェルズの朗読がもたらしたパニックを例にとろう。つまりこの事件で、人々はラジオドラマを「ニュースのコンテクスト」で聴いてしまったのである。

「運動」の倫理−あるいは表象コンテクスト試論−文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ』所収

映画には映画のリアリティが、アニメにはアニメのリアリティがあってそれは現実世界とは本質的には関係がないことを言っている。


視覚メディアのリアリティについては先にも引用した次の著作にまとまっている。

フレーム憑き―視ることと症候

フレーム憑き―視ることと症候

…感覚は、常に間接的であるほかはなく、ここで考慮されるべきは「視覚のフレーム性」のほうなのである。あらゆる視覚はフレームによって媒介される。…ここにおいてわれわれは、「視ることの真実性」から「視ることのフレーム性」へとシフトする。そこにはもはや、単純な現実 - 虚構といった二重性が成立しない。ただ複数のフレームが並立するだけだ。…

…フレームは、まさにフレームそれ自体の機能によって、複数の真実=リアリティを産出する。もっと具体的に言えば、フレームを切り替える瞬間に、「リアル」の感覚が胚胎するのだ。このときリアルなのは、実は対象ではない。対象のリアリティは二次的効果にすぎない。われわれが欲望し、リアリティを感じているのは、フレームを切り替えた一瞬に宿る、それ自体は表象不可能なフレームの存在のほうなのだ。

―『フレーム憑き―視ることと症候』p53「身体・フレーム・リアリティ―押井守イノセンス』」

いかにもラカニアンで否定神学的な物言いですな。


ちなみに僕は「リアリティ」を、

  • 「結びつき」「つながり」の確からしさ、あるいは緊密性

みたいに今のところは考えている。まだうまく説明できないけど。


小説とかのリアリティはまたよくわからんなぁ。

というわけで、とりあえず今回はこんなところで。


*関連書籍

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

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文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ

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