数学にも秘められたランダム性Ω―『セクシーな数学』

純粋数学にランダム性があることを発見したちょっとエッチなおじさん、グレゴリー・J・チャイティンのインタビュー、講演などが載った本。たしか苫米地英人の本に名前出てたので知った。ゲーデル不完全性定理を情報空間に一般化した人だって紹介してたと思う。

セクシーな数学―ゲーデルから芸術・科学まで

セクシーな数学―ゲーデルから芸術・科学まで

偶然―ランダム性と物理学

この本にもう少し早く出会えればよかったのに!
読んでてそんなことをヒシヒシと感じた。発売したころにも一度本屋で見かけたはずだがなぜかスルーしてしまってた。しかし、今の自分だからこそこの本の重要性がある程度まで理解できるんだと思う。そういう意味では今このタイミングでこの本に出会えたことはラッキーなのだろう。

こうした本との出会い、人との出会いは様々な偶然の重なりからできている。

中にはこれを「運命」や「宿命」という必然と考える人もいる。そういう考えは物理学の中では決定論的世界観と呼ばれてきた、あの「ラプラスの悪魔」がいる世界だ。20世紀に入る直前まで物理学ではこの世界観が支配的だった。初期値と初速度が分かればニュートン方程式で未来も、過去すらも万事解決というわけだ。

その世界観は20世紀に入る前に崩れ始める。まずそれは熱力学から始まった。ボルツマンらによる「エントロピー増大の法則」。物理学の法則はニュートン方程式を見れば分かるように時間について対称的、つまり時間を逆回しにしてもOKなはずだった。しかし熱現象にはそれが成り立たなくなる。ランダムに散った気体分子を逆回しに運動させて元に戻すことはできない。この法則は当時の物理学界で大議論を巻き起こしてボルツマンは叩かれまくった。この理論はほとんど受け入れられず、ボルツマンはそんな中、自殺してしまう(科学に限ったことでもないがこの世界でも先進的な発見の影にはこうした悲劇が隠れている)。20世紀にかけてこの分野は統計力学として、現代物理の支柱をなす方法論として確立する。

20世紀に入ってからは先の決定論的世界観は完全に崩壊する。量子力学がとどめを刺す。ハイゼンベルク不確定性原理。電子の位置が分かると運動量が分からなくなる、運動量がわかると位置がわからなくなる。これはつまり先のニュートン方程式でいう初期値と初速度が同時に分からなくなるということで、電子の運動を予言することが不可能であることを意味する。私たちが分かるのはシュレーディンガー方程式を解いてわかる電子の存在確率のみである。ここにきて物理学は「ランダム性」に支配されることになる。

数学のランダム性―ゲーデルチューリング、そしてチャイティン

前置きはこれくらいにして本書だが、チャイティンは元々物理学に興味のある少年だった。宇宙物理や相対論、量子論に興味を持つ非常に早熟な天才少年は、物理学を記述する言語である数学に興味を持つ。そこで彼は、かのゲーデル不完全性定理に出会う。この世にも不思議な定理にチャイティン少年は魅せられてしまう。彼はゲーデル不完全性定理とは何を意味しているのか、それを理解することを願った。

彼は15才のときに考えていた「構造の欠如もしくはパターンの欠如」「ランダム性」のアイデアが、この不完全性定理、つまり「数学の限界」の問題に関係していることに2、3年後に気づく。

彼のこの数学における「ランダム性」というアイデアが面白いのは、それが物理学からいわば逆輸入されたように見えるところだ。実際、彼はそのアイデアが物理学から来ていることを語っている。数学を基礎として成り立っている物理学の概念が、数学にも適用できるのではないか。彼は15才の時に思いついたそのアイデアを発展させるべくその人生を費やしてきた。なんと幸福だろう!彼は15才にして自分の人生を費やせる目標を見つけられたなんて。(俺なんかは23にしてまだふらふらしているYO!)

数学において決定論的世界観に当たるのはあのヒルベルト・プログラムだろう。19世紀の数学者、ヒルベルトは数学において問題となりつつあった逆理、パラドックスの問題を、完璧な形式公理系を創り上げることによって回避しようとした。しかしそのプログラムはゲーデルが示したように実行不可能だった。ヒルベルトは間違っていた。ただ、その間違いは「とほうもなく実りのある」間違いであった。失敗は成功の母。ヒルベルトはここから超数学と呼ばれる数学の新しい領域を創り出した。そこからゲーデル不完全性定理チューリングの停止性問題が証明される。

詳しいことは省いて、チャイティンの仕事をゲーデルチューリングの仕事との関連から説明すると、

  1. 推論に限界があるという驚くべきゲーデルの段階、
  2. それがより自然なものだと思わせるチューリングの段階、
  3. プログラムサイズを調べることによりそれが自明で不可避だと思わせるチャイティンの段階へ

となる。チャイティンの段階においては不完全性、数学の限界が目の前に現れてくる。実際、彼のプログラムサイズ、情報計算量という概念を考えると、どこにでも不完全性が面白いように発見できてしまう。その具体的な現れが彼の定義する「ランダム数Ω」である。彼のアイデアの概略についてここで簡単に説明するのは僕の能力の限界を超える(というか僕自身まだ理解したと言えない)ので知りたい方は本書p196-204が詳しいのでぜひ本書あるいは関連書を当たってください。
(あるいはここ読めば雰囲気つかめるかも→「コルモゴロフ複雑性 - Wikipedia」)

数学が不完全ならどうするのよ

チャイティンが面白いのは数学が不完全であることを数学で証明してることもそうだが、彼はその数学の不完全性にも関わらず、数学の未来に非常に楽観的であることだ。彼はまだこの分野に面白いことがまだまだあることを確信している。さらに彼はフォン・ノイマンの夢でもあった生命進化の数学理論を求めようとしている(しかも彼は生物学を数学に近づけるのではなく、数学を生物学化させることによるアイデアを示唆している)。そしてこれからの数学もまた他の科学に近い程度に「擬似経験的」なものになっていくであろうことを予言している。というよりそもそも数学も何事かを発見する方法は「擬似経験的」なものだし、既にそうなのである。

今後とも研究すべきことがらはたくさんあると思います。
私たちは、とても刺激的な時代に生きています。
実際のところ、少しばかり刺激的過ぎるのではないかと思うことが時々あります。

―『セクシーな数学―ゲーデルから芸術・科学まで』p209

PS:セクシーな数学

チャイティンの言葉ではないが、インタビュアーの言葉に面白い箇所があったので紹介。

―芸術と科学に関してよく言われる相違点は、芸術的観点でいえば、発明、ある意味で積み重ね的でないこと、非線形的な点です。芸術史を読んでも進歩という観点を得るのは非常に困難です。

マン・レイがこう言ったことがあります。

芸術はセックスのようなものだ、芸術には進歩はない、

あるのは違ったやり方だけだと。

―同上p90

名言すぎる。

このチャイティンのおっちゃんの発言の中にもエロさがにじみ出ててよい。

結局、私たちは肉と血から創られているのですよ

―同上p30

関連

チャイティンのHP

本書にも収録されてるマサチューセッツでの講演。

他の著書も読んでみたい!次はこれかな。

メタマス!―オメガをめぐる数学の冒険

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