はてブのお気に入りを減らしてて思い出したアンテナ有料使用時代と「マイミクを整理します」という言葉と僕のはてなスターによせる希望―「ことばのリハビリテーション」

当方、お気に入りを増やしすぎて最近はてブをまったく使えてなかったので(というか最近ははてなスターを使い込んでたためでもあるが)お気に入りになっていた方を何人か減らしました。
お気にいられ人数は「はてなブックマーク」のコミュニティにおいては1つの指標ともされ、はてブの上の方に「数字」として表示されるので、それが減ることに大なり小なり軽く「あーー!」みたいな感じになるのは個人的に経験としてあるのでそれが減ったことに僕みたいに「あーー!」てなった方には申し訳ないです。「はてブのお気に入り」が気づかないうちに僕の認知限界を越えてました。


実はこういう経験は僕には「はてなアンテナ」を有料使用していた時代にもあった。
面白いブログ、テキストサイトを見つけるとすぐさまアンテナに登録していた僕はあっという間にリミットである「200件」をあっさり越えてしまったのです。それ以上は有料じゃないと登録できないということですぐさま「はてなポイント」を3000ポイントくらい買ってアンテナ有料ユーザーに以降したのですが、しばらくすると大変なことに気づきました。


面白くない…


「え…なんで?僕はこんなに面白いブログやサイトをアンテナに登録しているはずなのに…」


半分の原因は、僕が抑うつ傾向の人間で「面白いこと」が面白く感じられなくなる時期が起こることにもあるだろうが、もう半分は違うと思う。


「自分にとって」面白いブログがいつも「自分にとって」面白いエントリを書くとは限らないし、
「自分にとって」の「面白さ」は常に変化しているからだ。
昨日面白かったことが今日も面白いとは限らないし、明日面白いかはもっとわからない。
ユヤタンが第一回の文学フリマで僕の質問に返したように

予定は未定

が世の常である。mu君(id:emptiness)とこの前話したときに言ってくれたようにひっくり返して
未定が予定
と言い換えてもいい。


少し迂回になるがこれも話しておこう、
僕がこの件でもうひとつ思い出すのは某SNSmixiで僕のマイミクがあるとき言った次の言葉だ。

マイミクを整理します


SNSの研究 あなたはまだ「マイミク」のことが好き?どういう気持ちでこの人がこういう発言をしたか僕にはその経緯がわからないでもないが*1、この発言をすることはSNSという「ヒトとヒト」を媒介するメディアであるはずのWebサービス上で、「ヒト」が「情報」以下のレベルにおとしめられているではないか!*2と僕は衝撃をうけた。これは冗談ではない。一応言っておく。


「ヒト」と「情報」は違う。養老孟司を引用するまでもなくこれは生きていればわかるはずのことだ。


人間科学「ヒト」は変化するが、「情報」は変化しない。何十年前の新聞を今読んで、そこに違う意味を読んだとするならば、それは時間の経過により「ヒト」が変化したためである。何十年前の新聞に書いてある「情報」は変化してない。読み込む主体が変化したのだ。
「ヒト」は生きている。生きている限り変化する。細胞レベルでは総入れ替えだ。考え方が時間で変化するのは当然のことだ。ただし「ヒト」が生み出す「情報」=「言語」≒「ことば」は変化しない。だから私たちは「ことば」に注意する必要がある。書くときも、読むときも。


「へんな会社」のつくり方 (NT2X)ちょっと遠回りしたが、僕がはてなスターというはてなWebサービスに「希望」を見出すのは、認知限界のギリギリまで多くの人たちと交流ができる「可能性」に1つはある。


前々からこのブログを見てる人ならばわかるかもしれないが、あきらかに僕のブログは変化している。その変化は「はてなスター」にわずかに明滅して見えるブログの「希望」が、僕にもたらしたものだ。


まわりの何人かの友人には話していることだが、僕は「メッセンジャー」などのチャットのようなコミュニケーションがひどく苦手だ。その原因は、

  • 友人であっても、「顔」と「表情」が見えないこと
  • とつぜん、ノックも無しに部屋に入られる感じがすること


この2つに尽きる。
笑われるかもしれないが僕はまず「顔」が見えないコミュニケーションが怖くて仕方がない。
僕がTwitterに手を出せずにいるのも、それが「チャット」のような「コミュニケーション」である印象を受けるからだ。


郵便的不安たち# (朝日文庫)「誤解されるのではないか」

「ぜんぜん伝わっていないんじゃないか」

「もしかしてバカにされているんじゃないか」


そういう不安と恐怖、
東浩紀がいみじくも言い放った「郵便的不安」に駆られるのだ。


文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナそんな僕がはてなダイアリーmixiがOKなのは「顔」が見える、あるいは見えやすいからに他ならない。
はてなの場合は「アイコン」としてまさに表示されるし、IDは「固有名」として呼びかけの名として機能している。そしてID自体を通じた「固有性」が他のサービスを貫いて「顔」として機能している。
mixiは「顔」を見たことがあるか、プロフィールや日記、コミュニティ一覧を通じて「顔」が見えやすい人に限定している(しかし最近はmixiで日記は書いていない)。


そしてどちらも自分の「部屋」が用意されているから安心できる。
はてなの場合、僕はこのダイアリー、ブログが「部屋」として機能している。
mixiの場合、そのものサービスページが「部屋」として機能している。
「部屋」の存在は「居場所」であり、そして自分自身をたしかめるために重要な位置を占めている。


もちろん「部屋」にいるだけでは何も起きない。
誰かの「部屋」にトラックバックというメッセージを送ったり、コメントをしたり、ブックマークをしたり、はてなスターをつけることでコミュニケーションが始まる。「コミュニケーション」もまた「居場所」と自分自身をたしかめるために必要不可欠のものだ。


最後の2つが示すように「コミュニケーション」はさらに「部屋」という自分の「居場所」を支えるために重要だ。「居場所」と「コミュニケーション」はどちらか一方でも無ければ成立しない「関係」にある。現在、「こころの病」と呼ばれるものを抱える人は、このどちらかが機能不全におちいっている可能性があると思う。
「ブログ」や「mixi」といったSNSはその「リハビリテーション」として、「ことばのリハビリテーション」として機能するのではないか。
そんなことを最近感じている。

*1:マイミクが一定人数を越えると人によっては逆にコミュニケーション不全におちいることがある

*2:そもそも「ヒト」と「情報」を比較している僕の考えそのものが「ヒト」の存在に対する冒涜なのかもしれない