松本人志と村上隆―空気と文脈の創造と移植、賛否両論の共通点

蚊に刺されてかゆい。
今日もよく眠れなかった。
しかしこの蒸し暑さはなんだねだから夏はきらいなんだよ、そして冬は冬で寒くてきらいなんだ。
松本人志 放送室毎週土曜深夜2時からはじまる松本人志のラジオをわりとよく聞いてて、地元からの友人で声優オタクのid:yiwata君には「よくあんな番組聞いてんな!そんなのより声優のラジオ聞こうぜ!」とか言われたりするのだが、実はけっこう初期から聞いてたりする。

最初は水曜深夜にやってたんじゃなかったっけ、当時は夕方から予備校行ってただけだったから多少夜更かししても平気だった。さすがに予備校本格的に行くようになって聞けなくなったブランクがあったけど、まさかこんな長く続くとはね、この番組。
初期は「50音順」に「あ」ではじまるキーワード、「い」ではじまる、「う」で…といった感じで毎週やってて、それだけで話題を作り出す2人の手腕(相手役は高須さん)というかなんというか、つーか2人が小学校からの付き合いというだけあってまた息がぴったりなんだ。んで小学校のときの思い出話とかするんだけどその話がまた面白いんだわ。どうでもいいようなハイレベルなくだらなさと面白さ。
さっきなんかテーマが「どうでもいい話特集!」でいきなり松本が正座オナニーについて語り出して吹いたw
北野武さんもそうらしいんですよ〜」て本人から聞いたのかそれww


まぁけど何より、僕がたまにでもこの番組を聞いてしまうのはただ2人の声が聞きたいだけだったりもする。本当に楽しそうに話す2人の会話は普通のラジオではあまり聞けない気がする。


そして興味深いのが、この次の深夜3時から放送しているのが「村上隆のFM芸術道場」であることだ。彼もまた、流す音楽はほとんど「サブカル」臭が漂う村上が好きなのであろう楽曲しか基本的には流さない。*1


僕は勝手にこの土曜深夜のTOKYO FMはゴールデンタイムだと思っている。
松本人志」と「村上隆」。
2人とも日本のサブカルチャー、あるいは文化を担う重要なキーパーソンだ。
松本は「お笑い」、村上は「アート」と全く違うジャンルにいる2人に思われるかもしれないが、僕はこの2つのジャンルはかなり近いと考えている。なぜか。
それは2つとも「空気」または「文脈」(コンテクスト)、そしてそのズレに意識的にも無意識的にも鋭敏でなければ成り上がれないジャンルだからだ。*2


簡単に具体的に言えば、例えば先の松本のラジオは実に「ラジオ番組らしくない」ラジオ番組なのだ。ラジオと言えばリスナーがリクエストした曲を流したり、リスナーからのハガキを読んだりする、リスナーとの双方向的なメディアとして思われている。
放送室の裏しかし松本はそれをしない。「松本人志の放送室」はただ40も越えたいい歳したおっさん2人が好きなだけ喋り合い、2人が好きなのであろう「昭和の名曲」を1回に1曲だけ流すラジオ番組なのだ。
これは既存のラジオ番組(「オールナイトニッポン」など)の「空気」に対する挑戦でもあり異議申立てでもある。そしてその試みはこの番組が長く続いていて、一定の固定リスナーを獲得していることから成功していると言える。


スーパーフラット一方、例えば村上隆は「日本のアートはオタク文化である」と言い続け、既存の「アート」(美術の教科書に出てくるような海外の作品や「海外からのお墨付き」を得ている浮世絵など)の文脈を批判し、「アート」の中心地ニューヨークに「オタク文化」の象徴とも言える等身大の「フィギュア」を持ち込んだり、「スーパーフラット」なる新しい「文脈」を創造、あるいは捏造しグローバルな「アート」の流れに移植することにより、日本の「オタク文化」が「アート」たりうることを証明してみせた。


芸術起業論そして何よりこの2人の共通点は「賛否両論を巻き起こす」点だ。それは先日の松本のラジオの中でも、松本の映画『大日本人』の反応に触れながら、最近村上の『芸術起業論』を読んだという高須の口からも直接語られた。


「空気」や「文脈」の自明性を壊されたり、作り替えらたりするような「作品」は、それらを自明だと思い込んでる人にとっては不安にさせられ、その「作品」を叩くことに繋がるだろう。
あるいはその自明さを暴露され、新しい「空気」や「文脈」を持ち込んだことに驚き、感銘を受けた人にとってはその「作品」を賞賛することに繋がるだろう。
このように「作品」に対する価値判断なんてのはしょせん人によって恣意的なものだ。


「お笑い」や「アート」の重要性はそこにもある。人々の価値観を揺るがし、価値観の底、深淵を垣間見させること、そこに何が見えるのか?
善悪の彼岸 (岩波文庫)そういう点で「お笑い」と「アート」は「哲学」にも似ている。「哲学」とはニーチェのように「深淵をのぞきこむ者」、深淵に魅せられた者の学問であるからだ。
「哲学」が語りえない問題を「お笑い」と「アート」がいかにして示すのか。「深淵をのぞきこみ、深淵にのぞきこまれ」、深淵に魅せられた者の1人として、僕はこの2人にもまた、魅せられずにはいられない。

*1:こういうスタンスは菊池成孔のWANTEDについても多少言えるが、彼らは曲りなりにもオリコンチャートの上位曲を言いわけ的に流しつつ、自分の好きなJAZZの名曲やら前衛音楽、アフリカのよくわかんない民俗音楽を流していた。

*2:そういう意味で、浅田彰森村泰昌の「作品」を「『アート』というよりも『吉本興業的』」と評したのは的を得ている