「声」の力とリアリティ、ラジオについて

成長の一時期、とりわけ中学生くらいの頃からラジオとか音楽の存在が重要になってくるように思う。
例えば僕の場合、居間で親と一緒にいるのもうざったいし、晩飯を食ったらさっさと部屋にこもっていたわけだが、かと言ってごく平凡な家庭に育った僕は、当時自分の部屋にテレビやパソコンがあるわけでもなかったので、ただなんとなくあったCDラジカセから流れてくる声で、一人部屋にいる寂しさを紛らわせていた。
今の中学生、特にケータイを持った彼らがどんなライフスタイルを送っているのか想像がしにくいが、根本の部分は変わっていないのではないだろうか。孤独感を紛らわす、あるいは癒すために身近な外に繋がる道具、メディアは用いられる。精神分析ウィニコットの言葉が使えるならば、それはぬいぐるみのようなある種の「移行対象」とも言えるかもしれない。
当時の僕はよく「やまだひさしのラジアンリミテッド」を聞いていた、毎回ハイテンションに進行するDJ、やまだひさしの声は孤独感を紛らわすどころか、そんな孤独感とかがどうでもよくなってくるような次元にまで僕らを飛ばしてくれた。一万円クイズとか、やたらゲストに呼ばれてたラルクとかがくだらない話をしてるのを聞くのが、中学生だった僕の夜の過ごし方だった。
そして番組が終わった後は、なんだかよく分からないけどムーディ勝山ばりにムードだけはたっぷりな「ジェットストリーム」の伊武雅刀の声を聞きながら眠りについた。
ラジオと言うとAMの「オールナイトニッポン」のイメージが強いように思うが、当時の僕はあまり聞かなかった。クラスではFM派とAM派に微妙に分かれてたりしてAM派から「ラジアンはつまらない」とか言われたりもしてた。AM派は夜更かしになるせいか授業中寝てるやつが多かった。
最近の僕はほとんどラジオから離れてしまった。おそらくインターネットがここまで日常的になってしまったからだろう。インターネットはかなり容易に孤独感を癒すことができる。ケータイは特にそうだろう。しかし反面、このことは社会学者の辻大介らが検証しているように逆説的に孤独感を再生産しやすくしてしまうこと(「寂しさ再生産」)にも繋がっているのだが…。
そんな再帰的な「寂しさ」の強化を止めるのにラジオとか音楽とか「声」の力がけっこう有効なんじゃないかと今さらながら気付いた。
過剰に装飾された女子高生のメールとか派手な着せかえ人形のようなアバターをネットで見るにつけ、どうしても「ついていけなさ」を感じてしまう僕はおそらく旧世代でそこは諦めるしかないんだろうけど、自分はそこで「声」の力を信じてみたいと思った。
「声」はそのままでリアルだ。「文字」とか文体による「キャラ作り」だけでは伝えきれない何かが「声」にはあるんじゃないか。単純な事実のようだが、そんな単純なことを大事にすることをこういう時だからこそ大切にしようと、なんとなしにさっき僕は決意した。