ゲームの不可能性について - システム知の探求 2006 レポ

斎藤環の話題が無理やりでも出せてたまきん萌えにとってはそれだけで満足のレポートの一部を抜粋。
それにしてもここで引用したインターコミュニケーションの連載は本にまとまったりしないのかなぁ。かなり面白かったんだけど。精神分析的ブログ論みたいなのとか。

■ゲームの不可能性について - 「共生する主体・紛争する主体」レポ

ゲーム理論の視点を用いた駆け引き、一種のコミュニケーションの分析手法が紹介された。
お互いに非協力的なゲームを想定した場合(世界の解釈は共通知識と仮定する)、各プレーヤーはお互いに自分の利益を追求しようとする。しかし、それはお互いにとって最悪な結果しか残さないことがあるということが、単純な2×2のマトリックスを用いて示された。
だが、現実にはそのようなことが頻繁に起こっているわけではない。

むしろ、逆に現実ではお互いにとってプラスになるような結果へと向かうような選択をしている。
これは合理的なプレーヤーにはゲームから逸脱するインセンティブを持たないためだと考えられる。どういうことか。

現実のゲームは一回限りでは終わらない。たいていのゲームは繰り返されることが想定されている。そのゲームの場(社会)ではお互いの「信頼」というファクターが重要になってくる。「信用」のない多重債務者に銀行がお金を貸さないように、「信頼」のないプレーヤーにはゲームにおいて相手は敵対的なプレイしかしなくなるだろう。
よってゲームの場(社会)における信頼を保つためにプレーヤーはお互いにとってプラスとなる選択をしようとするのである。

ただ、これが実現するには、お互いの、主体により観察・認識・解釈して構成される「現実のモデル」―「内部モデル」がある程度、一致している必要がある。お互いの「心のモデル」と言ってもいいかもしれない。つまり、どれだけ他者の考え―心を類推することができるかにかけられているのである。


それにしても改めて驚きを感じる。私たちの社会が「他者の心を類推する」などというそれこそ「博打」のような前提の上に成り立っていることに!
いや、「博打」どころかそんなことは厳密には不可能ではないか。よく考えてみよう。

真に合理的な二人のプレーヤーAとBがいるとする。Aの立場に立って考える。
AはBの心を類推し、選択Wをすることが望ましいと考える。
しかしAは、BがそんなAの心を類推してXという選択をしようとすることを予想し、Yを選択することにしようと考える。
が、またまたしかしAは、BがそんなAの心を類推しZという選択をしようとすることを予想し、やはりWを選択することにしようと考える。……
 …以下同様…。

このようにAの選択はどこまでいっても決まらない。決定することができない。
社会学者のパーソンズルーマンはこのような状況を「ダブル・コンティンジェンシーdouble contingency」(二重の偶発性)と呼んだ。
ゲーム理論に問題点があるとすればこの点だろう。
私たちは他者の心―行動を正確に予想することはできない。(北朝鮮がまたミサイル飛ばしてくるなんて予想していた人間が日本にどれだけいただろうか)

パーソンズはこの偶発性をいかに消去するかに腐心したが、それはかなり難問であろう。
この議論を引き継いだルーマンは驚くべき発想の転換により、この問題にアプローチする。ここではあまり深くは立ち入らないが、ルーマンはその解決方法を《偶発性の消去から、偶発性のやり過ごしへ》と表現した*1
つまり、偶発性の消去―他者の予期に合致した行動をすること、より、他者の予期を踏まえているかどうかを重視することで解決を目論んだ。


しかし、私にはまだそれでも不十分のように思われる。結局、主体はきっぱりと決断を下すことができないからだ。「断言」することができないと言ってもいい。

メディア論などにも積極的に発言している精神科医斎藤環はこのパーソンズルーマンの「ダブル・コンティンジェンシー」に対して、ジャック・ラカンの「三人の囚人の寓話」を持ち出すことでシステム論の欠点を指摘している*2
「三人の囚人の寓話」とは次のようなものだ。

三人の囚人が居た。そこに所長がやってきて、こう言った。「ここに5枚の円盤がある。三枚は白で、二枚は黒だ。これをおまえ達の背中に貼り付ける。他人の背中は見ることは許されるが、話してはならない。自分の背中に貼ってある円盤の色がわかった者だけが、そしてその理由を論理的に正しく説明できた者だけが、釈放される」。こう言って、所長は三人の囚人すべてに白の円盤を貼った。
結果は三人が同時に走り出して所長のところに来て、同じ理由を述べたので、三人とも釈放された。*3

次ページをめくる前に少しだけ考えてみてほしい。答えを知っていても、もう一度考えてみてほしい。なぜ三人とも釈放されたのか。ヒントは太字。






問題の答えはこうなっている。

まず、任意の囚人Aが他の二人の主体の背中に黒の円盤がついていないことを確認する。
次に、他の二人が、それぞれ同じものを、すなわち白を一つと、任意の囚人Aには解らない自分自身の色をみていると理解する段階。
最後に、他の二人が動かないという事実から自分が白だと任意の囚人Aが結論し、走り出す段階。
なぜなら、もし任意の囚人が黒であった場合、他の二人はどちらも黒と白をみていることになり、どちらも「自分が黒であった場合、白は外 にでているはずだ」と考えるからだ。』*4

精神分析における「時間」の重要性を的確に示す寓話である。
ラカンはこの寓話を例に「せき立て」と呼ばれる概念を形式化した。
誰か一人でも先に走り出したらこの寓話は成立しない。だから3人の囚人は「せき立て」られ、他の誰よりも早く所長のもとに走り出そうとする。
結果3人の囚人は同時に走り出すことになる。*5

もちろんこれも厳密には不可能な話ではある。
しかしこの寓話は、「決断が不可能であるがゆえに決断が可能になる」というきわめてルーマン的な解答を分かりやすく示したものになっている。

そこから、ゲーム理論はスタートすることが可能になる。



(2009/6/21追記)引用した斎藤環の連載『メディアは存在しない』は書籍化しています。興味のある方はご覧下さい。

メディアは存在しない

メディアは存在しない

*1:連載第十回:二重の偶発性とは何か- MIYADAI.com Blog、http://www.miyadai.com/index.php?itemid=35&catid=7

*2:連載第6回:メディアは存在しない、斎藤環InterCommunication No.47

*3:三人の囚人:関心空間http://www.kanshin.com/keyword/315451

*4:XXII パロールはどこにあるのか? ランガ―ジュはどこにあるのか?http://www5a.biglobe.ne.jp/~ktanioka/lacan/Lacan-report40.htm

*5:この「システム論」における2人から「せき立て」の3人への人数の変化も面白い、斎藤も指摘しているがこの「3人」というのは明らかにエディプス・コンプレックスにおけるパパ―ママ―ボクのエディプスの3角形を思い起こさせる。