:「家族」のありそうもなさ。箇条書き。
ひきつづき。
昨日は斎藤環をインスパイアさせていただきw、この映画というよりも、家族におけるタブーについて書いてみた。
最初は社会学的な映画だとか書いてたが、家族と聞いてついつい精神分析を参照してしまった。いや、けど社会学も精神分析も基本的な発想は実は同じだったりするんですよね。
斎藤氏の対談集『OK?ひきこもりOK!』の宮台真司氏との対談から少し、引用しよう。
精神医学と同じく社会学も長らく「異常こそがありそうもない」と考え、犯罪や自殺のような現象を病理と考えてきました。
ところが最近の社会システム理論は、ラカン派同様、秩序があること自体がありそうもない事態だと考え、複雑なシステムではそのありそうもなさを乗り越えるメカニズムに意識的たらざるを得ないと考えるようになる。
社会の秩序か、精神の秩序かという違いがあるにしても、基本的な発想は同じです。
−宮台−
P65 『OK?ひきこもりOK!』斎藤環
この発想は単純な因果性にとらわれない思考を可能にするためのものです。
逸脱や期待外れが生じた場合、保守論壇の無教養な方々は、異常を引き起こした原因を探って「コイツが悪いんだ」と叫びます。これは感情的回復にしか役立ちません。
広範に生じているひきこもりや人格障害については、異常の原因を個別に探るより、「非自明な正常さ」を支える的社会条件を深く分析することが必要です。
さもないと「母親が厳しすぎたから酒鬼薔薇聖斗が生まれた」という馬鹿週刊誌的な結論になってしまう。
−宮台−
P74 同上
「社会」のありそうもない秩序は何によって、どのように支えられているのか。
この疑問はもちろん「家族」にもそのまま当てはめられるだろう。
一度この映画で考えたこと、気になった点を書き出してみる。
- 家族であることの根拠とは何なのか
- 母娘の系列(さと子−絵里子−マナ)でくり返される「ねぇ、私、どこで仕込まれたの?」
- 「誕生日」が「家族」をつなぐ(のか?)
- なぜ母親(絵里子)は家族を必死に護るのか
- これは単純に「家族擁護」の映画とだけみていいものか?
- 「再帰的近代」における「家族」。MIYADAI.com(宮台真司氏)より
- 母娘の系列(さと子−絵里子−マナ)でくり返される「ねぇ、私、どこで仕込まれたの?」
- 「赤」「窓」などが象徴するもの
- 「胎内」のイメージ
- 「窓」を出る≒「出生」のイメージ
- 分かりやすい象徴には注意、見落としに注意
- なぜ「浮気」と「売春」は家族−母親(絵里子)に隠されるのか
- 「浮気」「売春」は家族を解体する(した)
- それでも「家族」は残り続ける(たのか?)
- 『最後の家族 (幻冬舎文庫)』(村上龍)との比較
- 「家族」は擁護せざるをえないもの(なのか?)
- 残念な「トラウマ図式」