斎藤環せんせいが先日の秋葉原デモに言及してるよ(ゲームラボ8月号)、ついでにデモのまとめとか「居場所」について(今さら)

界隈で色々と話題だった『6・30アキハバラ解放デモ』。
そんな話題に日本一「萌え」に詳しい精神科医*1がなんか言ってます。

興味あれば本屋で探して。ちょっと微妙なコーナーにあるかもだけどね!

簡単に勝手にまとめさせてもらえば、


「たしかに「これはイタいなぁ…」と僕も思うし、君たちも思うかもしれない。
けど、それは僕たちがそれだけ「世間」の目を気にしてるってことなんだ。
あのデモを「イタいなぁ…」と思うかもしれないが、そこからの解放を目指す運動を実現させたってこと自体は評価しようぜ!
マンガとか同人誌表現規制問題とかあるし!僕もこう見えて適当にがんばってるんよっ!」


みたいなかんじかな。せんせいはなんだかデモ自体に生理的嫌悪感がおありのように見えます。
勝手に赤字とかしちゃった、それにしてもこういう赤字って読みやすくなってるのかな?心配。
意味が違くなってたらごめんね!>id:pentaxx


ついでに関連エントリの発言をまとめてみたよ。色々大変だね(←おまえがいうな*2)。

冗談とはいえ、ブログにおいて左翼レトリックを用いてきた事が結果的に誤解を招いてしまったことについても弁解のしようもありません。今後は自らの行動を律していこうと思いますので何卒ご容赦いただけますようお願い申し上げます。大変申し訳ありませんでした。
……
この度は大変ありがとうございました。また大変申し訳ありませんでした。(赤字は引用者)

革命的非モテ同盟跡地

あと、最後に「このデモをやって何か変わりましたか?」とか言って批判する人には、逆に「1回のデモで社会を劇的に変える方法」を是非聞きたいね。僕がそれをやるから。

「アキハバラ解放デモ」への批判に関する雑感。 - 想像力はベッドルームと路上から

カゲキ派の拠点って大学の「文化系サークル」です。歴史研究サークルとか、フランスの核実験 nonの会とかって社会派サークルで、部長が院に進むでもないのに6年とか7年とか在学してたらもう鉄板でしょう。卒業したら部をほしいままにできなくなるから後継者が見つかるまで卒業できないんだよ。だから必死だよ。俺が行ってた大学のカゲキ派くんは辛そうだった。後継者になるようなタイプの子なんてあんまりいない学校だったから。それにそもそもそのカゲキ派くん非コミュだったしねw。非コミュオルグはつらいだろう。でも必死でがんばって、俺が在学中にひとり後継者が決まりかけてたんだけど、それを嗅ぎつけた俺と友達が一緒に潰したw。だって道を誤りそうな人を見かけたら話くらいするよね。……
……
びっくりするかもしれませんが、彼ら自身は拠点を守るという良心的活動を行っているという意識ですよ。で、超苦労多そうだよ。カネも無いし孤独だし夢もないしね。なんでやってんの?って素で思うね。で、活動に身を投じた理由は大概みんな新歓のノリと流れに乗れなかった孤独な自分に、はじめて優しく声をかけてきてくれて、今まで自分が知らなかった社会の嘘や灰色の男達について教えてくれたから」って感じだよ。プププー、わかりやすすぎですよー。絶対本人は認めないだろうけど「サヨの脳内を手に取るように読み取るマン」はこう喝破してしまいますよ。新興宗教もカゲキ派も自己啓発も全部同じ手法。東京の大学生孤独で脆弱すぎ。(赤字は引用者)

はてなグループ

これを読んで思い出した記事。

かつて、社会のなかに居場所がない人間に居場所をあたえ、そうした人間の人格を認めてきたのはまさに右翼やヤクザであった。ひとは、正しいことをいう人間に、ではなく、自分を認めてくれて居場所を与えてくれる人間についていく。(赤字は引用者)

第7回 戦争は“希望”なのか? - 萱野稔人「交差する領域〜<政事>の思考〜」

うんうん、そうなんだよねー。やっぱかやのん*3はいいこと言うわ。

恥ずかしいことを言ってることを承知で言えば、*4
今の僕にとって「はてな」はそういう「居場所」なんだと思う。


ただ自分を認めて欲しくて、たまに駄文を書き連ねたり、トラックバック送ったり、コメントしたり、ブックマークしたり、はてなスターつけまくったりしてる。


けど、それが時には人を傷つけたり、自分を傷つけてることもある。あるんだ。


話がそれるけど、そもそも「文字」っていうのは亀甲文字とかくさび形文字とかを思い出せばわかるように、何か物に刻みつける行為から始まった。「文字」は世界に「刻み」を入れる、言い換えれば「傷つける」ことだった。「刻み」「傷つける」ことではじめて人は世界を確かめることができる。


リストカットなどの自傷行為について友人がこう話してくれた。

「死にたいから切るんじゃないの、生きてることを確かめるために切ってたんだと思う」


じゃあ僕は、「生きてること」を確かめるために、このゴミとゲロと糞の汚物まみれの掃き溜めのインターネットの、「はてな」という「居場所」で「文字」を刻み続けてやろう。
もっともっとネットを「文字」という排泄物で埋め尽くしてしまえばいい。そうしよう。


それが人を傷つけてしまうことがあることを意識しながら、「生きてること」の実感を得るために。


そしてそれが知らないどこかの誰かにとっての「生きてること」の実感につながることを祈って。


好き好き大好き超愛してる。 (講談社ノベルス)愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい。


――舞城王太郎好き好き大好き超愛してる。 (講談社ノベルス)

豊崎…“愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい”にはじまる箴言めいたプロローグにちょっと懸念を覚えたんですね。お前は窪塚洋介かっ!? 9階から飛び降りますか、と(笑)。舞城さんて実は天然なところあるじゃないですか。でも、それをここまでストレートに示すのはいかがなものかと思っちゃったんですけども。

大森 いや、あれを書けるのは才能の証明ですよ。今、文芸全体のテーマって『世界の中心で、愛をさけぶ』をどうするかってことじゃないですか。「作家なら、ぐだぐだ陰口言ってないであれを正面から叩きつぶしてこい!」と(笑)。「好き好き大好き超愛してる。」はちゃんと叩きつぶしにいってる作品なんですよ。

豊崎 はいはい。

大森 舞城王太郎は『DEEP LOVE』や『世界の中心で、愛をさけぶ』で泣いてる女子高生にどうやったらメッセージを伝えられるのか、たぶんちゃんと考えてる。だから、「愛は祈りだ。僕は祈る」なんだよ。文芸誌なんか知らない読者にも伝わるように、思いきり素朴に、カメラに向かって正面から語ってる。でなきゃ、恋人を癌で亡くす話なんか書かないって。それこそオレンジレンジの歌になってもいいくらいの強い覚悟でさ(笑)。(赤字は引用者)

http://media.excite.co.jp/book/news/topics/089/p02.html


舞城王太郎佐藤友哉が『1000の小説とバックベアード』で書いた「やみ」だと思う。*5
彼は才能があるがユヤタンが描くような「小説家」には当たらない。

1000の小説とバックベアード「小説家が書くものは媚薬にして毒薬。片説家が書くものはサプリメント
やみが書くものは麻薬。」

――佐藤友哉1000の小説とバックベアード


舞城は「媚薬」「毒薬」、あるいは「サプリメント」に見せかけて「麻薬」を書く。
彼は「小説を安楽死」させようと企てる。

我々は誰よりも小説が好きだ。我々は誰よりも小説が嫌いだ。我々は何よりも小説が好きだ。我々は何よりも小説が嫌いだ。ゆえに我々で小説を安楽死させる。ゆえに我々で小説を無効化させる。才能と人生と矜持を投入して、小説を終了させる。一〇〇〇のやみが小説を笑い、一〇〇〇のやみが小説を憎み、一〇〇〇のやみが小説を愛したとき、もっとも幸福なかたちで、小説は消滅するだろう

――佐藤友哉1000の小説とバックベアード


何かの「価値」を語ろうとすればすぐさま私的「信仰」にしかならない現状。
そんな中で佐藤友哉は「小説はすごい」と信じ、書き続けることを選択した(ように見える)。


正直言って僕はほとんど小説を読まない。そんな僕に小説を語る資格なんかないかもしれない。
けど語るんだよ。自分の居る場所からギリギリ見える範囲の視野を凝視しながら。
誰もすべて見渡すことはできない。僕は僕が見える範囲で語ればいい。


ただ、僕たちは行動する必要がある。「ダイヤモンド」を見つけるために。

クリスマス・テロル invisible×inventor (講談社ノベルス)
美しいダイヤモンドがあっても、皆が見えるところになければ全く意味がないのと同じような状態だ。当たり前だがダイヤモンドには脚がないので、最初に置かれた位置から一ミリも動けない。ただそこに存在しているだけ。出来る事と云えば、気紛れのようにごくたまに降り注ぐ太陽光に身を当てて己の存在を必死に伝えるくらいだ。だとしたら行動可能なあなた達がどうにかしなければならないのでは?

――佐藤友哉クリスマス・テロル invisible×inventor (講談社ノベルス)

「犯人は読者です(本当)。」

――佐藤友哉クリスマス・テロル invisible×inventor (講談社ノベルス)


笑われようが、馬鹿にされようがみんな文字」で叩きつぶしてしまえ。
「媚薬」も「毒薬」も「サプリメント」も「麻薬」も「薬=毒」であることに変わりはない。
「批評家」は「解毒剤」でも勝手に作ってろ。


」でも「文字」でも「」でも思う存分に流せばいい。
早くゲロってしまえ。自分の感情を、信仰を、を。
誰が言ったか知らないが、ここはしょせん「便所の落書き」だ。


いつか時間が経てば、ゴミもゲロも糞も、血も涙も、勝手に処理される。



参考

僕は基本的に愚痴という情報をネット上にばらまきたくない人だが、「1000の小説とバックベアード」については上のような感想であり、これは愚痴ではなく、酷評のつもりだ。佐藤友哉のことは変わらず応援している。

http://kobe.cool.ne.jp/babies/alt/re-s.html

作者の意志表明のようなものはおぼろげながら伝わってくるのだが、消費者=読者は生産者=作家の事情などにはあまり興味がないものなのである。

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このリアリティが、この同時代感と同世代感が在在しなかったら、今年「苦しい時代としての」28歳となる僕は、この作品を読了できなかったかもしれない。

佐藤友哉『1000の小説とバックベアード』 - フリジッド・ガゼット【all the footprints I’ve ever left】

パルマコンというギリシア語には、薬と毒という二つの意味が含意されている。人を救い癒すものが、人を殺すものとなる。古代ギリシア人にとって薬=毒は希望と恐怖の混ざった危険で魅惑的な存在であったのである。それは哲学の危険性と同じかもしれない。

ドクニンジンと「よき死」 - 木原志乃

*1:自称

*2:最近これマイブームw

*3:萱野稔人

*4:こんな下らない前置きを置くこと自体「恥ずかしい」ね。あとついでに言えばmixiとかのSNSもそういう「ひとの居場所」として機能してる。特にSNSは社会の中に居場所が無かったか、あるいは見つけられなかった「マイノリティ」たちにとってのコミュニケーションツールとして重要な役割を果たしているように思う

*5:佐々木敦は「「小説」(純文学)と「片説」(エンターテイメント)と「やみ」(ライトノベル)の三者を良く理解し目配せをしつつ、そのいずれでもない地点からいずれでもない語り口で語るポジションとして配置すると云う、巧妙な設定」とこの小説を整理したと聞いたが、この分類は暫定的にしか当てはまらないものだろう。フラットな「小説の環境」の中では、才能があればこの分類はいくらでも掻き乱すことができる。参考:http://d.hatena.ne.jp/frigidstar/20070624/p1