欲望を持てることは幸いなり

突然、落語家になりたいと言い出した友人がいるのだが、彼が落語をやってるところなんて全く見たことが無い。
そこで、見せてくれよと言ったら
「今はできない、師匠についてみっちり落語について教えてもらって、自分なりの落語ができるようになったら見に来てくれ」
と言われた。どうやら彼は落語を自分で一度もやってみたことがないらしい。
その点をかなりつっこんで、一度自分でやってみてそれから決めるのも遅くないとかなんとか色々言ってみたのだが、彼はあきらめる様子は無いので、とりあえず落語の師匠の面接には行くようだから、そこで師匠と話したことも含めて考えようということになった。
それにしても、なんだか若いなぁと人ごとのように思ってしまった。無鉄砲で向こう見ずで。
彼と僕には共通点があって、それは高校を中退してて大検を取って大学に行った所だ。高校時代の彼に久々に会ったときに「俺も高校になじめない」旨の相談を受けたときは驚いた。別々の高校に行きながら原因は違いながらも同じ境遇にいる友人が地元にいたのだ。彼の考え方にシンパシーを感じることも多い。おそらく僕と彼はどこか似ているのだろう。

そんな彼が再び大学という学校を辞めて、落語をやると言うのもなんとなく分からなくもなかった。
彼も僕と同じで「ここではないどこか」をいつも目指しているんだと思う。

ただし、今回の彼は話が飛びすぎだ。師匠との話し合いを通じて、色々と考えがまた改まることを期待したい。

といっても僕は別に彼の夢、というか希望を諦めさせたいなどという気持ちは毛頭ない。ただ、夢とか希望を叶えるためにはそれ相応の覚悟と努力、そして戦略が必要だということを伝えたかったのだ。しかし、僕のようないち大学生ニートが何を言っても説得力がないらしく、いまいち伝わらなかったようだった。そりゃそうだ。

希望格差社会とか言ったりする人もいるらしいが、この時代に夢とか希望を持てることはけっこうラッキーなことだ。それにも増して、落語のような自分の好きなものが見つけられた人はもっとラッキーだと思う。
僕が思うに今の社会は「希望」格差社会というよりも「欲望」格差社会なのだ。
彼には落語という好きなことをもっと追求してほしいと思う。そんでなりたいのならなればいい。ただ、当たり前のことだが好きなことと、それをやることは全く別だということは分かっておく必要がある。