科学はいつも宗教と共にある

宗教と科学が「共存できるか?」なんて考えるのは日本人だけなんじゃないだろうか。
欧米では科学者にも信仰を告白している人は多い印象があるし、特に数学者は定理の美しさなんかを「神」と結びつけて語りたがる*1。あとアインシュタインは「スピノザの神」を信じていたことで有名だよね。まぁ「スピノザの神」は一般に言われてる「神」とはニュアンスが違うけど。

水は言葉を理解したりしない、ということは「ほぼ断言していい」のに、神や霊魂は実在しない、ということは「ほぼ断言」できないんでしょうか。してもよさそうなもんだけどなぁ。この間にそんな大きな違いがあるんでしょうかね?うーむ。

「ほぼ断言」できない理由を簡単に説明しよう!

科学はこの世界がいかにあるか、どのようにしてあるかを理論的に筋道立ててきれいに説明してくれるね。
けど科学は「この世界がなぜその『理論』で説明できるのか?」については答えられないし(例えばなぜ質量に光速の2乗をかけたものがエネルギーに相当するのか?なぜ光速の2乗なのか?3乗じゃだめなのか?みたいな)、さらに言えば「なぜこの世界があるのか」については答えることができないんだ。

例えば「宇宙の始まり」。最近は理論研究の進展と観測技術の発達もあって色々分かってきたみたいだけど「『無』から宇宙がどうやって生まれたのか?」については科学者もお茶を濁したようなことしか言えないだろうね。「『無』のエネルギーのゆらぎから宇宙が生まれたんだ」とか言う人もいるけど、かなり怪しい。だから科学者の中にはこの宇宙の誕生の瞬間を「神の一撃」とか呼んだりする人もいるくらいだ。


「なぜこの世界があるのか?」もしくは「なぜ自分が存在するのか?」みたいな科学では答えられない問いが存在する限り、宗教は存在し続けるし、無くなったりすることは絶対無いでしょう。
宗教が無くても生きていける人はこのような問いをやりすごして生きていける人とか、「そもそもそんな問いかけは無意味、ナンセンスだ」と思う人たちでしょう。それはそれで全く構わないと思う。落とし穴にはまらないように生きられてるわけだからね、今のところ。かくいう僕もその一人。


しかしこんな「宗教と科学が共存できるか?」なんて疑問を持ってしまうのは日本人の「科学」とか「宗教」に関する認識が欧米とかのそれとはズレてるからだろうね。
日本人にとって「科学」っていうのは「真理の探究」だとか「宇宙の解明」以前にまず「なんだか暮らしを豊かにしてくれる便利なもの」、という意識があるんだと思う。「それって何の役に立つの?」っていう感覚だ。
「宗教」に関しては「不幸だったり貧乏だったり、あるいは変な人たちが集まるところ」とか思ったりしてないだろうか?オウム事件以降はこの「変な人」っていうところがかなり強く日本人の意識に残ってるような気がする。僕自身そういう偏見で見てしまってることもあるしね。さっきなんか「宗教+科学」でググったら「幸福の科学」が引っかかって笑ってしまってたところだ。
そういう偏見を未だに持ってる人におすすめのサイトと本を紹介しておこう。


世界がわかる宗教社会学入門 (ちくま文庫)

世界がわかる宗教社会学入門 (ちくま文庫)

橋爪氏の宗教に関する本だよ。


宗教に関する偏見と誤解を解く作業は日本人がこれから諸外国の人々と交流するにあたって不可欠な作業だと思う。外国に限らず国内にだって「創価学会」のような大きい宗教もある。身近にいるそういう人たちを異星人かのように偏見のまなざしで見るのではなく、理解しようとすること。そういうことが大切なんだろうな。まぁ僕も日本の新興宗教については分からないところが多々あるけど。


話が脱線してしまったね。科学と宗教の話題に戻そう。

なんというか、科学を信用していながら神や霊魂の実在をナンセンスと思わない、って一体どういう状態なのかうまく想像できないんですよね。

これはたしかに分かりにくいんだけど、「ナンセンスだと分かっていながらもはまってしまう」というか「ナンセンスだからこそはまってしまう」っていうのがあるんだと思うな。例えばオタクなんかは近いものがあるよね。「子供向けのアニメをくだらないものだと分かっていながらも見てしまう」というか「くだらないからこそ見てしまう」みたいな。


けど、物理で出てくる「重力」だってよく考えたら怪しいと思わない?だって離れてるもの同士が力を及ぼしあってるなんて。あれもニュートンが発見した当時は誰もがナンセンスだと思ったらしいよ。
神とか霊魂もたしかにナンセンスかもしれないけど、「世界の存在」だとか「死後の世界」といった答えが無いような難しい問いに人間が考え続けてきた答えの一つではあると思う。
ウィトゲンシュタインという哲学者は「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」と言ったことで有名だけど、そう言った当人がとても宗教的な人間であったことは彼の日記*2などを読むとよく分かる。つまり当のウィトゲンシュタイン自身が「語りえないこと」に一番拘っていたんだ。ナンセンスだと分かっていながらもはまっていった人間の代表と言えるね。


これを読んでるあなたも今はそのような難題に悩まされずにすんでいるかもしれない。しかし、一度これらの問いに"感染"してしまった場合、免疫をちゃんと持ってないとコロッと変な新興宗教とかに入信してしまう可能性は少なからずあるのだ。そのためにも「宗教」というものについてちゃんと考えてみることは必要だと思うな。特に日本人は。


*リンク

反証しようのない宗教上の教義に関しては、科学の進歩を懸念する必要はないのだ。「宇宙の創造者」という、多くの信仰に共通する大いなる概念はそんな教義の一つだろう。これは、正しいと証明することも、まちがっているとして捨て去るのもむずかしい概念である。

カール・セーガンという人の本からの引用。直前に書いてあるダライ・ラマとのやりとりも興味深い。

現代科学が明らかにした自然界の法則性は、デカルトが想定した「時計仕掛け」のように単純でメカニカルなものではなく、人間の知的能力では捉えきれないほど複雑にして精妙である。世界の構成要素は空間内部に定位できるようなリジッドな物体ではなく、微妙に揺らぎながらカオスの綾を紡ぎだしている。物質と生命は根元的なところで混じり合い、生き物が作り出す社会や文明の深淵さがどこまで物質に支配されているのか、人間に答えることは叶わない。世界が“非情な”法則に支配されているとしても、それが分析的知性では計り知れない超越的なものである以上、知られざる世界へのスタンスを決定する指導原理としての宗教が機能する余地が存在するはずである。(太字は引用者)

知られざる世界へのスタンス」、アインシュタインの「スピノザの神」だとか。日本にも仏教の思想に基づいて研究してる科学者がいた気がするけど忘れちゃった。