遺された人々と靖国問題

何やら先日死んだ友人、Yの家族内で揉め事が起こっているらしい。
ここまで書いてもう、僕はなんて不謹慎な人間なんだと思ってしまった。遺族のことを思えば、こんなことをここに書くのは最低の愚行に等しい。


けどこの場は一応匿名のブログで、あの家族の場からもかなり隔たりがあるはずだから書かせていただきます。全然理由になってないね。とりあえず一回書かせてください。なんか問題ありそうだったら消す。


揉め事はYの両親と祖父の間で起こっている。
祖父は妄想混じりにYは安楽死だったの病院は誤診だったの両親には死なせた責任があるんだからもっと態度で示せとかネット上の日記に書き公開している。
それを見た友人たちが「これは最後に死を受け入れたYの誇りを傷つけている」と憤り両親に伝えた。
両親はそれを読んでいないが、死に際のYに生きろ生きろと言い続けた祖父を元々よく思っていなかったので(←ここらへん若干僕の妄想)そんな祖父をますます許せなくなって絶望している…。


Yのことをみんな愛しているが故にこんなことなっちゃってるから、なんとも手の施しようがないところ。時間が解決するしかないのかなぁ…。
とりあえず一回顔合わせて話した方がいいよね。文字とかだけのコミュニケーションは危険だから、特に身内とか友人同士だと。あとお祖父さんは顔文字とか使わないしね。お互いに誤解とか被害妄想が肥大してっちゃう。
もし顔も合わせたくないなら、もう無視するしかないだろうね。
その時は時間だけが頼り。
こんなところかなぁ解決策は。


書く前から気づいてたけどこれって靖国問題と相同なんだよね、問題の構造が*1


お国のために死んだ戦死者の誇り、日本の誇り日本人の誇りを守るために小泉とかは靖国神社を参拝した。戦争を二度と起こさない願いとかも言ってたけど。
けど日本人の中には、彼らを死なせてしまった、殺してしまったことの責任、悲惨な戦争を起こし他国に少なからぬ迷惑をかけてしまった責任を態度をもって示すべきではないかと言う人もいる。
これがいわゆる右翼、左翼の対立なのかはまだ留保が必要だけど、大まかに言ってこんな構図でいいはず。


ここで注意してほしいのは前者の人たちが守ってる「誇り」というモノが本当に戦死者や日本の「誇り」なのかということ。
私たちは自分を見失いそうになった時、国家とか何か大きなモノに自身の尊厳を託してしまいがちになる。そのとき自分の誇りは国家とかの誇りと一致する。
決してそれが悪いわけではない。むしろ敬意に値するかもしれない。
しかしそれが泥沼の戦争へとこの国を導いたのもまた事実だ。


件の両親や友人も「Yの誇り」を守ると言いながらも、守っているのは「自分の誇り」だけなのかもという可能性に注意する必要がある。


かと言って責任ばかりを問うのも困りものだ。過ぎてしまったことは戻らない。私たちは過去の責任を完全にとることはできない、いくら責任をとっても過去は戻ってこない。原理的に無限の責任を私たちは負うことになる。そんな道も泥沼だ。


件の祖父はそのことがわからない。両親がどんな気持ちで娘の側にいたのか本当の意味でわかってない。というか本当の意味ではわかるはずがない、他者の気持ちなんて。想像するしかない。想像してみるのもつらいが。



とにかくYは絶対にこんな状態は望んでいないはずだ。
「人間は国籍とか宗教云々以前にみな同じ人間なのです」などと衒いもなく言ったYがこんな仲違いなど望んでるはずがない。


Yを思う気持ち、愛する気持ちは皆同じはず。
そのことを思い出して少しでも対話が生まれ、泥沼に陥らないことを願ってます。
靖国に平穏が訪れることと共に。

*1:この場合、中国、韓国といった他国からの干渉はないけど