『ぱにぽにだっしゅ!』の面白さ

というものを語りたくて、その語るフレームだとかアイデアだとかはある程度、頭の中を巡ってはいて、さっきのバイト中にもぱにぽにのOPが頭に流れてたりするぐらいなのだが、書こうとして、自分にそれらをまとめあげる「力」とかがあきれるほど無いことに気づく。あと「自信」だね。自分の考えていることがどれだけ伝えることができるか、どれだけの普遍性を持つものか、という。
この作品がどれだけ語られているのか、まだよく調べてもいないのでよく分からないが、とりあえず、僕の周辺ではこの作品がとても「面白い」ものであることはとりあえず一致していて、それは例えばmu氏(id:emptiness)によっては「寺山修司」のラインで見ていたり、hu氏(でいいんですよねw)によっては「『月詠』において試された実験的な映像表現の前景化」と見ていたりする。
僕自身はどうかというと、「アニメ表現史」というものをでっち上げて、そのラインでこの作品「ぱにぽにだっしゅ!」を考えてみたいのだが、今の自分の力量だとかなり無理がありそう…。

そもそも「アニメ表現史」(「アニメ史」でなく)というものを総体的に考えた仕事ってあったっけ?誰か教えて。
そういえばこの「アニメ表現史」というものが頭に浮かんだ一つのきっかけが伊藤剛氏による良書『テヅカ・イズ・デッド』であり、その中にあった「マンガ表現史」という言葉だった。

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

マンガと同様に、アニメも「表現史」というものが語られづらい状態にあったのは言うまでもないことだろう。マンガと違うところがあるとすれば、90年代にアニメには『エヴァンゲリオン』があった、ということだろう。歴史、物語の不在は『エヴァ』によって補填されていた。それは一瞬にしてまた消えたのだが…。
ちなみにこの『テヅカ…』によって示されたシステム的なフレームはそのまま、アニメの方にも同様の手続きで、転用しうるものだと思う。そういう一般性という点から見ても、この本は素晴らしい。

とりあえず、自分だけの力じゃまとめられないことが明らかなので、頭の中を巡っている断片だけでも、これから少しづつアップしていこうと思います。
情報を共有することがイノベーションを加速させるとか、えらいひとが言ってます。
近藤社長CNET Japanのブログはそのことを非常に分かりやすく語っておられます。
以下ブックマーク的に引用。

インターネットは知恵を預けると利子をつけて返してくれる銀行のようなものだ、という感じがしてきます。多くのインターネットユーザーの行動や知恵が、インターネット上に表現された内容に集まり、様々な角度から幅や深さを広げていく。そういうダイナミックな知的活動の力を活かさない手は無いのではないか、とそういう風に思います。
近藤淳也の新ネットコミュニティ論、開始にあたって

共有するべき情報を、積極的且つ適切に相手と共有する能力がとても大事だと思うのです。それには、日頃から上手にコミュニケーションを行えるよう努力を続ける事が大事だという気がします。

本当は話しておいた方が良い内容を、恋人や家族にも詳しく話したがらない人が、他の社員や自社製品のユーザー、社会と積極的に対話を行い、情報を公開していくことができるかというと、そういう切り分けはやはりなかなか難しいのではないかと思います。
情報共有 - 「自分のこと」を「あなたと私のこと」に変える方法

こういうときに社内では、「情報の私物化をしない」といった言葉を用いています。ソフトウェア開発会社にとって情報は重要な資産であり、その資産の有効活用こそが会社全体での生産性の向上に不可欠です。プログラムコードは、その情報の中でも製品を形作る重要な資産なのです。
情報の私物化を禁止する

オープンソースソフトウェアはソースコードが公開されているため、システムの信頼性が高い、といったようなことがよく言われます。しかし、この信頼性を獲得している一番の要因はソースコードが公開されていること自体ではなく、不具合が発生した際に修正されるプロセスが公開されていることではないかと思います。

つまり、不具合が発覚すれば世界中のプログラマが修正パッチを作成して早期に穴は塞がれ、そのプロセスはメーリングリストアーカイブとして公開されている、という安心感が他の製品を上回っているからこその信頼ではないかと感じます。
不具合と信頼性

引用しすぎかな…汗。

ちなみに情報共有ってのは「科学」の分野においてわりかし積極的に行われたものであった。というか共有された情報を参照しなければ「科学」は成立しえないものなのだが…。
科学がここまで進歩したのはひとえに「情報共有」にあったといっても過言ではない。
そこでは情報の「発見者」(固有名)とその「論文」に最大限の敬意が払われる。
まぁこれは「学問」一般の話でもあるが…。
それで思い出したのが東浩紀氏の次のエントリ↓

しかし、学者である以上、やはり言葉の選択には敏感すぎるほど敏感であるべきです。研究者は概念に著作権を主張しません。だからこそ、その由来はできるだけフェアに参照すべきです。…

人文・社会系の学者には、むかしから、本当に影響を受けた対象を隠し、そのひとを飛び越えて元文献を引用することでハクをつける、という非倫理的な態度がまかりとおっています。たとえば一昔前には、柄谷行人を読んだことは明確なのに、柄谷の名前を一切出さず「他者」や「交通」をキーワードにするひとがいっぱいいました。こういう行為は、批判するのがたいへん難しいものです。「俺も原書で同じことを思いついたのだ」と言われれば、それまでだからです。

しかし、そのような飛び越えは実際にはすぐ分かるものです。ゆるゆるのインスパイアは、学者人生を狭めるものでしかありません。
kajougenron : hiroki azuma blog: インスパイア

問題のお方は、情報社会の倫理以前に、学者としての倫理を考えてほしいものです…。
あーホントこれはがっかりだー。がっかりしたってことは、期待してたってことなのか。


て、話がずいぶんそれたが、つまり頭ん中にもやもやした考えは、とりあえずブログにでものっけといてみましょうってこと。ネタ受け止められるかもしれないし、マジに受け取られるかもしれない。ぶっちゃけどっちでもいい。誤配けっこう。テキトーに届けばよい。一人、二人がひっかかればいい。それでいい。
なんか話それすぎ、そして長すぎ。

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