言葉はさんかく×PIZZA OF DEATH/ミドリ、音楽の「魂」について

久々にCD買った。この前買ったのはいつだっけなぁ。
テレビでPV見てたら買いたくなってしまった。M-ONめ、やりやがったな。
いつもは流し見だけど、このPVだけは魅入ってしまった。福音にきこえた。

そういえば去年の今頃くるり聴いてたなぁ。くりかえしくりかえし。


くるり言葉はさんかく こころは四角(初回限定盤)(DVD付)

言葉は三角で 心は四角だな
まあるい涙をそっと拭いてくれ


くるり言葉はさんかく こころは四角


The Very Best of PIZZA OF DEATH

Let's fuckin' go,
Let's fuckin' go,
Let's fuckin',Let's fuckin',Let's fuckin' go,


Goooooooooooooooooooooooooooooo


BBQ CHICKENS「Let's Fuckin' Go」『The Very Best of PIZZA OF DEATH


我ながらよくわからない組み合わせだ。
TSUTAYAのCDの棚を回ってたら「ロングセール」というタグが付いていたのと懐かしさと15曲で2300円かぁという所に手頃感を感じていっしょに買ってしまった。それにしてもCDは高い。


■自主レーベル「PIZZA OF DEATH」を設立した横山健、そして「Hi-STANDARD」(ハイスタ)の存在の重要性についてはあまり語られていないような気がしてたまに不安になる。まぁ内輪ではたっぷり語られてるんだろうけど。僕はその内輪にいないからなぁ、こんな半端にしか音楽聴いてないやつ相手にしないだろうし、なんかちょっときもちわるかったりするし。
ていうか彼らのようなアーティストは語られることを拒否するからまた難しい。ていうか内輪以外でこんなこと話す必要があるのかもわからん。けど書くよ。


■日本のロック史、あるいは広く戦後音楽史、あるいは狭く80年代バンドブームから90年代、ゼロ年代(関西ゼロ世代)までのバンド史のようなものを考えれば
「Hi-STANDARD」は「THE BLUE HEARTS」に次ぐ重要性があると言っても過言じゃない。
それは多くの人が認めてくれると思う。
例えば峯田和伸が「GOING STEADY」を解散し、自主レーベル「初恋妄℃学園」を立ち上げ「銀杏BOYZ」として再活動したのは、「ハイスタ」の横山健が「PIZZA OF DEATH」を立ち上げたことに影響を受けていることは明らかだ。


■彼らは徹底してメディア露出を拒否した。「モンゴル800」(モンパチ)とかも彼らの影響かは知らないがそうだったのを覚えている人も多いだろう。彼らはテレビに多くのオファーを受けながらそれらを全て拒否した*1
それは彼らの「ロックジャーナリズム雑誌」や「マスメディア」に対する不信感に原因がある。

インディー・ロック・ストライクス・バックThey try to sell you
A new edition
Of propaganda
And stupid lies
You'll never find
The truth of music
Inside the pages of a rock magazine


BBQ CHICKENS「STUPID MAGAZINES」『INDIE ROCK STRIKES BACK


■しかし「Hi-STANDARD」は「モンパチ」以上に徹底されている。何しろ「カラオケ」にすら彼らの曲は無いのだ。「モンパチ」はカラオケでも歌える、「ハイスタ」は歌えない。
なぜ「カラオケ」に彼らは曲を提供しないのか。
はいはい例によってWikipediaせんせいを参照させていただきますよ。

彼らの楽曲は一部を除いてほとんどカラオケに収録されていない。これは、


カラオケで歌うぐらいなら、友達とバンドを組め


という難波(*難波章浩)の意向によるものである。(赤字、注は引用者)

Hi-STANDARD - Wikipedia


■つまり「カラオケ」みたいに勝手にしょぼいアレンジみたいなことされてそれが「彼らの曲」として馴れ合いツールとして消費されたり、僕みたいな適当に音楽語るような「オタク野郎」は語るヒマあったらバンド組めよということだ。
ここにも彼らを語る困難がある。彼らは「音楽」至上主義なのだ。「言葉」への信頼が無い
「彼ら」が「日本語」で歌わず、一貫して「英語」で歌い続けたのもそのためかもしれない。


ちなみに彼らの影響下であろう「B-DASH」はこの「音楽」至上主義を受け継ぎ、徹底させたバンドの1つといえる。
彼らはもはや「日本語でも英語でもない意味不明な歌詞」、「適当めちゃくちゃ語アドリブ」を生み出した。

ぽおーううぇーん瞑あーらさっちゅ Way a そーれー峯圓冥
おーううぇーあーれそー円ちゅーあん Moーい
We spare shull feh a shuweh 医療隊マッカラ号
立派な拳法界 正方位


B-DASHちょ」『

「適当めちゃくちゃ語アドリブ」はGONGON曰く「日本語歌詞を作るのが面倒」、「洋楽の歌詞が書けないので英語っぽく唄っている」、「言葉という概念を捨て、音として聴いてほしい」と、さまざまな理由を雑誌のインタビューで発言しているが、どれが基本なのかは不明。

B-DASH - Wikipedia


■彼らは徹底して「意味」のようなものを拒否した*2
これは90年代後半から「意味から強度へ」と唱えた宮台真司にも呼応している。*3


■話を「ハイスタ」に戻そう、彼らは自分たちの「音楽」が「カラオケ」のような「コミュニケーションツール」として消費されることも拒否した、現在でも「カラオケ」に彼らの曲は無い。
以前は「着メロ」も無かったが*4、前に横山健がインタビューだか日記だったか忘れたが「着メロ」に対しても激しい不快感を表明していたのをよく覚えている。「あんなピロピロいってるのの何がいいのか」みたいな感じで。横山は自分はケータイは音が鳴らない状態にしているように言っていたと記憶している。
ここまで自分の「音楽」というものへの哲学が徹底されてるアーティストもなかなかいないだろう。
彼らの「アーティスト」としての「プライド」と「」を感じる。


■彼らは自分たちが「音楽」に込めた「」が安易に消費されることを嫌ったのだと思う。


■僕はこのミドリのPVを見るたびに涙がボロボロ出てしまう、なんで泣いてるんだ僕は。
彼女が歌いながら回すカメラに写る聴衆の顔はなんてマヌケに見えてしまうのだろう。ミドリと後藤まりこの圧倒的なまでの「存在感」と「音楽」と「」の前では、聴衆はまるで存在感が薄い、もはや風景ですらも無いのではないか。それだけリアリティが希薄だ。
後藤まりこの叫びには「」と、そしてただぼーっとライブに来て眺めているだけの聴衆の「魂」への「問い」がある。
あんたはだれや」という過剰なまでの問いはその「魂」への問いかけに他ならない。
ミドリ、とりわけ後藤まりこの「」に僕は魅了されずにはいられない。
一度彼らのライブを見たいが、しかし僕は彼らのライブに行く勇気が出ない。
その「魂」への「問いかけ」に僕は応答できるのだろうか?

(追記:20070804)
そうだ、彼女、後藤まりこはそれでも僕たちに


愛してるで


と言うのだ。彼女は「問いかけ」に応じないものにも「許し」を与える。(追記:20070804)



■「音楽」に込められてきた「魂」は今も多くのバンド、アーティストの「音楽」に引き継がれている。ミドリはその1つだ。



セカンド■「あんたはだれや





あららくるりについて何も書いてないや、まぁいいか。

*1:例外としてツネこと恒岡章が優香の大ファンということで彼女がDJの音楽番組に恒岡章だけが出演したことがある。そのときツネは優香がクマ好きということでクマの着ぐるみを着て出演した。

*2:最近のB-DASH日本語詞の曲を多く作っている、その変化と運動にも注目すべきだろう

*3:終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫)

*4:最近はあるようだ